番組表を見ていてタイトルは気になったものの、つい見逃してしまったテレビ番組がある。今書こうとしているエッセイのタイトルと同じ「消えた天才」という番組であった。試写室と銘打った番組紹介のコラムによると、素晴らしい実力を噂されながらもプロ入りしなかった野球選手、横綱すら勝てなかったといわれるほどの実力を持ちながらも角界入りしなかった相撲取り、五輪出場を果たしたもののその後消えていったスノーボードの選手などが取り上げられていたようである。

 中味を見ていないので、これら天才と噂された個々人が、挫折を繰り返しながら消えていったのか、それとも新たな人生を見つけて別の方向へと進んでいったのか、行く末については何も知らない。上に掲げたコラム試写室には、番組で取り上げている選手の名前も紹介されていたのだが、残念ながらスポーツに疎い私にとってはどのアスリートの名前も聞いたことがない。だから彼等が天才と評されたことも、そもそもスポーツ選手であったことすら、私の記憶にはまるで登場してこない。

 ただ、このタイトルに興味を惹かれたのは、天才が消えるということよりも、天才もまた消えることが当たり前なのではないかと思ったからであった。神童と呼ばれたところで、いずれ凡人として生涯を終えたような例を、私たちはごく当たり前に知っている。

 もちろん現代はテレビやスマホなどインターネットで情報が飛び交う時代だから、近隣の数人の噂話の中で神童だの天才だのと騒がれているのとは違って、もっと現実味を帯びた天才の評価がそこにはあるのかもしれない。自他共に許すような「天才という評価」が、どこからどんな風に発生し広まっていくのかなどを、必ずしも私が理解しているわけでない。

 天才と評されるきっかけには、例えば何かのスポーツ大会で優勝するとか、学術的な論文が評価される、更には芸術にしろ芸能にしろ、他者を抜きん出ているとの評価を受けるような晴れ舞台があったことなどがあるのだろう。その評価の場が、例えば地方大会みたいなものから全国、更には国際などへと拡大されて行くにつれて、その評価も「多少抜きん出ている」程度から天才へと拡大していくのかもしれない。そして必ずしも世界一ではなくても、そうした過程を経ながら一種の「天才への評価」が少しずつ定まっていくのかもしれない。

 だが、多くの場合その評価の舞台は、一つの種目というか分野に限られているのではないだろうか。レオナルドダヴィンチのように万能に秀でたと評される人物の存在を知らないではないし、二度にわたってノーベル賞を受賞した人物がいることだって知っている。それでも天才と呼ばれる人のほとんどは、ある特定の分野における優秀さが評価されたことによるのではないだろうか。

 世の中には野球をやらせても、サッカーをやらせても共に世界に通じるような人物がいないとはいえないだろう。また更には、スポーツ万能でありながら同時に、芥川賞なりノーベル賞を受賞するような能力も兼ね備えたような人物だっているかもしれない。だからそうした具体例を個々に挙げられてしまうと反論できなくなってしまうのだが、うまい具合にそうした人のいることを私が知らないことを根拠にして、更なる独断を続けていくことにしよう。

 人生は多様である。人生が「運命」として、生まれたとき(もしかしたら生まれる以前)から、「かくあるもの」として定まっているという考え方だってあるだろう。しかし努力は報われるだの、頑張れば叶うだの、人生は自分で作り上げるものなのだみたいな呪文を、幼い頃から言われ続けている私たちにとって、「達成できる人生」、「成功を勝ち取る人生」、「目標ある人生」みたいな標語は、それなりに魅力を持っているものである。そしてそれはそのまま、人生が選択可能な多様性の中にあることを、自らの中に承認しようとすることでもある。

 先にも書いたように、私は「天才」の意味をしらない。作者はシャーロックホームズを、地球が太陽の回りを公転していることを知らなかった人物として設定しているらしいが、それがホームズの天才性を損なうものではないだろう。また、アインシュタインが幼少期、アスペルガー症候群であったとしても、そのことで彼の相対性理論を貶めることにはならないだろう。

 この程度の例だけで「天才性」を云々したところで仕方のないことだとは思うけれど、天才というものも狭い分野における一種の程度の範囲として考えることができるような気がする。オリンピックのマラソンの優勝者と大衆の涙を誘う吟遊詩人のどちらに月桂冠がふさわしいか、そんな問いかけの話を聞いたことがある。恐らくはそれぞれにそれぞれの勝者であり、そこに優劣などつけがたいことを示唆しているのだと思う。

 仮に天才もまた程度の問題に帰属すると考えられるなら、例えばマラソン、例えばノーベル賞、たとえば芥川賞など様々な分野に天才がいるとしても、その分野ごとに「未来永劫、世界にたった一人」ということはないだろう。それは例えばノーベル賞でも、物理学や生理学、文学など多くの分野に分かれて、毎年のように賞賛されていることからも分る。それは、物理学賞と文学賞のどちらに月桂冠を与えるのがふさわしいかを問いかける愚かさにも、つながるものでもあるだろうからである。

 ただ私はこの「消えた天才」というタイトルに、私たちが否応なく捕らわれている「評価」に対する思いの偏りを感じたのである。それは「願いは叶う」であり、「努力は報われる」であり、「精神一到何事か成らざらん」に通じるものでもあった。私たちはこうした言葉を、自身の励ましに使う場合もあるけれど、むしろ無責任に他者への要求として使用する場合の方が多い。頑張れば成功する、とにかく頑張れ、努力なしには何事も叶わないなどと、私たちは得てして他者に向かって「頑張り」を安易に要求しがちである。

 そしてこの番組がテレビ番組だからなのかもしれないけれど、テレビに放映され続けるることが成功や天才であることの証しであると思い込んでいるように思えたのである。つまり、「消えた天才」の意味は「テレビ画面から消えた天才」と同義であり、テレビで放映されなくなったことそのものが、天才からの失脚であると考えているようだからである。

 テレビで称賛された者だけが「天才」であり、テレビから消えてしまうことは「天才からの脱落」であると考えているのは、テレビ番組を作っている者だけの独断的な思い込みなのだろうか。それとも、こうした番組を作ることで視聴率が稼げるはずだと思い、そうした思いに当然同調してくれるはずだと思われている、私たち自身の視聴者としての浮薄さがそこにあるからなのだろうか。


                                     2017.9.6        佐々木利夫


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消えた天才