人が他人と違うことを、個性と呼ぼうが、天才と呼ぼうが、はたまたその違いを障害と名づけようが、結局は「人にはそれぞれ違いのあることを承認する」ことに他ならない。むしろこの世の中は、人それぞれがそれぞれに違っていることを前提に成立しているといってもいいだろう。
またしても私のいつもの癖である「程度」の問題へと移ってしまうかもしれないけれど、その違いの程度を「どの範囲まで承認するか」が、一種の社会のルールになっているのだろうか。ある範囲を設け、その範囲内にある者を正常と呼び、その範囲をブラス方向に外れた者を天才、マイナス方向に外れた者を異常と呼ぶのだろうか。
私たちはこうした一種の基準、場合によっては正常と異常を区別するような基準を、どこかですんなり認めようとしているのかもしれない。そうした基準の設定は、様々な場面で表れてくる。もしかしたら私たちは、そうした基準を設定することの承認の中で、社会とか民族と言った同胞意識を醸成してきたのかもしれない。
そうした基準の設定について考え出すと、私たちの回りには無数と言っていいほど区別・差別の要素が存在していることに気づく。
肌の色、知能、味覚、聴覚、文才、脚力、言語、血液型、性、技術、免疫力などなど・・・。そうした他者と私との違い、さらには私の範囲を少し広げた「私たち」との違いは、まさに十人いれば十人が異なるといえるし、程度の問題と考えるなら十人をいくらでも任意の固まりにだって分割できる。
そうした違いによる差の認識は、例えば生まれてきた順序、肉親の財力の違い、障害の有無やその程度、水中でどのくらい息を止めていられるか、趣味の違いなどなど、無数と言ってもいいほどあげられることだろう。
十人十色は、赤い1+白い1+黄色い1+青い1+・・・・・=10を意味するのだろうが、その組み合わせは例えばニンジン嫌い1+トマト嫌い2+セロリ嫌い1+ホーレンソウ嫌い3+・・・=10も認めるとするなら、そして全体を十人ではなく百人・千人・・・数億人を考えるなら、まさに無数の組み合わせを考えることができる。
例えば1000人を考える。性差で区別するとしたとき、その組み合わせはは500+500ではない。男女の定義にもよるだろうけれど、体は男だけれど精神は女だという者もいれば、その逆もある。また、肉体的に性差の区別をつけにくい場合だってあるだろう。
それでも例えばサウジアラビアでは女性には運転免許を与えないとされているし、つい数十年前まで日本も含めて世界に女性に参政権(選挙権)が認めていなかった国は当たり前に存在していた。このように大きく男女で二分する差別もあれば、性的少数者を疎外するなどの少数対多数という形での差別も存在する。
こうした差別が、先に掲げたあらゆる要素以外にも信仰や国境や趣味や民族など複雑に存在する。そして人はその複雑な違いの存在を、なかなか許容できないでいる。許容できないだけではない。むしろ排斥しようとするのである。
十人十色というのは、それぞれの違いを、違いとして承認しあうことを意味していたはずである。ところが、その承認を「排斥する」という形で実行したときに、人は差別を知ることになる。そしてその差は、対象となった「ある事実の差」を超えることになった。
腕力の強い者と非力な者との差は、単に筋肉の強さの差を示すだけに止まらなくなるのである。その差は能力の差、支配と被支配の差、優劣の差としても機能するようになる。ある事実が優位を持つようになると、その力は己の範囲を超える力へと増幅する。基本となった「ある事実の差」がその差の範囲を超えて、更なる拡大へと増幅していくのである。
その増幅はやがて人間としての差、人類としての差へと拡大し、力の強い者は力の強いことだけを根拠として、己よりも弱い者を多面的に支配するようになるのである。
私たちはもしかしたら、差別することの中で己の人生を組み立ててきたのかもしれない。家族を作り、集団を作ることの中に、私たちは否応なく「身内と他者」という観念を発達させてきた。そうすることが、もしかしたら生き抜くための必然だったのかもしれない。それがその範囲を拡大して地域、社会、国家などへと、その差別意識を拡大させてしまったのかもしれない。
「子どもを守るためならどんな事だってする」、「愛のためなら命だって惜しまない」などの思いは、その多くは美談として認識される。だがそれは、そもそも「自」と「他」を区別することから始まったのではないだろうか。「自」を愛することは、場合よっては(もしかしたら必然的に)「他」よりも優先することを意味している。「自」の利益は、どんなに理屈を掲げようとも「他」の不利益を前提に置いている。
ひもじさを前にして、一つしかないパンを公平に分配することなど人にはできない。自分で食うか、わが子に与えるか、半分に分けるか、隣の他人にも分けるのか・・・。悩むかも知れないけれど答えは自ずから決まってくる。それは私が飢えている、わが子も飢えているを超えて、我が国が飢えているにまで届いたとき、私たちはどこへ向かおうとするのだろうか。そして私が持っているたった一つのパンを、力ずくで奪おうとする他者を排斥することはどこまで承認されるのだろうか。
私たちは差別を「あってはならない」と口にし、思い、広げようと考えている。それが人なのだと思っている。そうした社会を承認することが人としての当たり前だと思っている。その一方で私たちは、同情はするけれど手を差し伸べることはしないことのいかに多いことか。
他人事(ひとごと)という思いは、私たちの中に根強く残っている。世界中の難民の報道を前にして私たちは、今晩の食事を「鍋にしようか、焼肉にしようか」などと同時に考えることができる。原発や地震の被害者の絶望的な思いを知りつつ、「私の生活に支障のない範囲内で寄付をすること」や「地元へ旅行したり買い物をすることで助けよう」くらいの思いの中に満足してしまう。
それは決して十人十色を承認していることとは違うだろう。それでもビールを飲みながらテレビに写る世界の悲惨さに同情する程度の「一種の残酷さ」を私たちは持っている。そしてそれを当たり前だと感じている。少なくともそれを超えようとは思わない。人とはこれしきのものなのだろうか。それが「当たり前の人」なのだろうか。違うとも、そうだとも、今の私に答えは見つからないでいる。
今朝(10月1日・日曜日)のNHKテレビのニュースは、内閣府が行ったアンケート調査の発表としてこんな報道をしていた。問い「障害を理由とする偏見が世の中にあると思いますか」、アンケートの回答結果「あると思う、80パーセント」。その数値が前回の調査から増えたのか減ったのかを問題にしたいのではない。また意見を求めた母集団3000人がどこまで日本人を代表しているのかも分らない。しかし、極端に言ってしまえるなら、ほとんどの人が偏見の存在を認めているのである。そして回答の「偏見があると思う」とする意見は、決して十人十色であることを承認する意見ではないのである。
2017.10.1
佐々木利夫
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