「異論はあるかもしれません」と前置きしつつも、「いじめを訴える子どもの話は、それ自体が証拠なのです」とこの弁護士(横浜、女性35歳)は説く。2017.11.22の朝日新聞の特集「いじめ そのとき」に掲載された意見である。

 確かにいじめは密室で起きることが多く、その立証には困難が伴うことが多いだろう。だが、証拠なき事実認定は、彼女がいかに「訴える子の話の筋が通っていても、証拠がないからいじめの存在を認めないというのはおかしい」と思ったとしても、弁護士の口から発せられた言葉として強い違和感を覚えたのである。それは、仮にこの言葉がいじめ事件だけに限定して発せられたものだとしても、あまりな暴論のように思えたからである。

 私は単に刑事訴訟法317条が「事実の認定は証拠による」ことを求めており、それに反しているという理由でこの意見に反対しているわけではない。私の人生観として、この規定がまさに正義であり守らなければならない鉄則ではないかと長く信じてきたからであった。

 彼女は一種の比喩として、「訴えることそのものが証拠だ」と言ったのかもしれない。そこまで「いじめは深刻なのだ」ということを言いたかったのかもしれない。それでも、家庭や友人との飲み会などで発せられた雑談ならともかく、弁護士としてしかも新聞という公器に掲載する言葉として、使ってはならなかったのではないだろうか。それとも彼女は本音でそう思っているのだろうか。

 想像ではあるのだが、きっと彼女は被害者からの訴えに対して、いじめの事実を証拠で示すことができなかったという過去を持っているのではないだろうか。そしていじめを受けたことを前提とした子どもの様々な被害を証明できなかったことで、結果として救うことができなかったのかもしれない。その場が、法廷に限らず例えば学校や教育委員会、更には加害者と思える子どもやその家族に対して、被害者である子どもの訴えなどが自身にとっては真実だと思えるにもかかわらず、その主張が通らなかったという口惜しい過去があったように思える。

 とは言っても、「いじめがあったのか、それともなかったのか」はまさに事実の認定であり、それは単に「私が思う」とか「被害者の一方的な主張」だけで決められるものだとは思えない。また主張や訴えを根拠として一方的に決めてはならないことなのではないだろうか。「私はいじめられた」との主張が、正しいか否かはまさに証拠による事実によってのみ、認定されることだと思うからである。

 そうだとしたらの話しではあるけれど、彼女の口惜しさが分らないではない。彼女の心の中では、相談された事件はきっといじめがあったとの心証が強かったのだろう。気持ちの上では、「いじめは事実」だと思ったのかもしれない。そして努力したにもかかわらず、そのいじめを証明する事実を見つけられなかったのだろう。そしてその事実を見つけられない自身の不甲斐なさを責めたのかもしれない。

 それでもそれはあくまで「彼女の思い」でしかない。その口惜しさは自分に向けるべきものである。もしかしたら、その事実を見つけられなかった背景には加害者やその関係者の画策などが深く関わっていたのかもしれない。狡猾な隠蔽工作などがあって、そのために証明ができなかったのかもしれない。その口惜しさを、相手の隠蔽や工作などにぶつけたいとする気持ちが分らないではない。でもそれとても、怒りは相手ではなく自分に向けるべきものなのだと思うのである。相手の事実の隠蔽や隠滅などを見つけられなかった力不足は、そうした相手の力に勝てなかった己にあるのだからである。

 証拠にも直接証拠と関節証拠とがあり、事件が民事か刑事かでその重みに違いあると聞いたことがある。どこまでが直接でどこからが間接なのか、必ずしも私が理解しているわけではない。状況証拠であってもいくつか重ねることで証拠能力が高まるという話を聞いたこともある。だから証拠の評価や捉え方も多々あるとは思う。

 それでも彼女が言うように、「訴えること」そのものが証拠だとする論述は、少なくとも私は弁護士としての口からは聞きたくなかった。その彼女の言い分は誤りであり、言ってはいけない言葉だったのではないかと思うのである。

 翌11月23日の朝日新聞は、小さな囲み記事の中でこの話しとは無関係だが、黙秘権に関する記事を掲載していた。沖縄で元米軍の軍属が女性を強し殺害した裁判員事件があり、その裁判で被告人が黙秘したことに対し、地元紙琉球新報が社説で「黙秘権行使は許しがたい」と批判したことを取り上げたものであった。

 琉球新報の批判に対し、地元の弁護士会が「正当な権利である黙秘権を行使したこと自体を厳しく論難した」のに対し、琉球新報は「被告は全てを話すべきだとの主張に問題はない」と反論したとの両論を掲げたものである。朝日新聞はこの事実に対し、単に両者の意見を並べるだけで日ごろの言論の自由や権利の擁護などには少しも触れようとしていない。

 ここにも私は情緒が法律を超えるような言動が見られるような気がしたのである。真実を求めるためなら黙秘権が制限されてもいいとする考えが、どこかで人々の心の中に膨れ上がってきているように思えたからである。そうした気持ちは、やがて「目的さえ正しければ手段は問わない」ような方向へと私たちを誘う恐れはないのだろうか。

 話を元へ戻そう。私はこの弁護士の言う「訴えこそが証拠」という思いは、新しいいじめを生み出すような気がしてならない。「私はいじめられた、被害者だ」とする主張が、証拠なしに事実として認められるようになるとしたなら、「私は○○君にいじめられた」と主張するだけで、その「○○君」を排斥もしくは「○○君に対するいじめ」に利用することができるようになることを意味している。

 しかもこうした場面で一番問題なのは、「ないことの証明」はとても難しいことである。「私はいじめていない」ことの証明は、「いじめられた」ことの証明よりも現実には更なる困難があるということである。それとも弁護士である彼女に言わせるなら、「いじめられた」との訴えが証拠となるなら、同時に「いじめていない」とする主張もまた証拠として俎上にあげられることになるのだろうか。

 そんなとき、果たしてどちらの主張が正しい主張として捉えたらいいのだろうか。私が仮に「昨日あなたはどこそこのスーパーで万引きした」と証拠なしで訴えられたとしたらどうだろう。防犯カメラの映像もなく、万引きの現場を見たとする証人もいないど、何の根拠もないまま誰かの思い込みだけで訴えられた時、私はどのようにして「万引きしていない」ことを証明したらいいのだろうか。

 証拠があってこその「万引きの事実」であり、仮に万引きをしたとしても証拠がまるでない場合には「法的には万引きしていない」と認定するのが、私たちの選んだ法治国家の約束なのである。大岡裁きでもなく、ソロモン王の権威による判断でもなく、「事実の認定は証拠による」ことを基本とした今の制度を私たちは、仮に有罪を見逃すことがあったとしても、信頼できるシステムとして採用したのである。その選択を大切にしたいと、私は心から思っているのである。


                                     2017.12.2       佐々木利夫


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訴えこそ証拠