最近見たテレビコマーシャルでの話である。かなり年配の男性が、薬のコマーシャルに出演していた。見たことのない顔だったので、素人の出演者なのかもしれない。彼はこんなふうに薬の効能を語る。「この薬を飲み始めてから、まったく物忘れがなくなった」。

 コマーシャルなのだし、その効能がどこまで本当なのかどうかの判断は、厚生省の規制やテレビ局の審査基準などに任せるとして、特にここで取り上げたいとは思わない。でも彼の放ったこの言葉の中に、「物忘れ」に対する基本的な問題が潜んでいるような気がしたのである。

 それは発言の中に、物忘れに対する本質が矛盾を通して内包しているように感じたからであった。「矛盾」と言う語は、中国の故事によるとされている。ある武器商人が、商品の矛(ほこ・槍に似た武器)を示して、この矛はどんなものをも突き通すと宣伝し、一方で盾を示して、この盾はどんな武器からも身を守ることができると述べた。それを聞いた客が、「それではこの矛でこの盾を突いたらどうなるか」と問いかけたという故事である。

 ここで取り上げたコマーシャルにあった「この薬を飲んでから物忘れがなくなった」にも、これと同じような矛盾が含まれているように思えたのである。物忘れとは部分的にしろ「記憶の喪失」を意味する。だから「物忘れがない」とは、「記憶の喪失がない」ことと同義である。そのことに異論はない。

 限られた時間内での測定で、どこまでその人の持つ全記憶の欠如の有無を判定できるのか、そこんところは疑問ではあるものの、仮に判定できることを認めたとしよう。そうしたときに、第三者がそうした測定を行って、「あなたにはどんな記憶の欠如もありません」、「物忘れはありません」と診断することは可能だろう。だからその意味では「記憶の喪失がない」と判定したことに異議はない。

 だがそれはあくまでも第三者による客観的な判定であることが前提となる。本人自身が自己診断の結果として「記憶の喪失がない」との判断を下したとたん、この判断がたちまち自己矛盾に陥ってしまうのである。このコマーシャルはまさしく自己診断の結果を表現したものであり、自己矛盾が露呈してしまったと思ったのである。

 なぜなら、自己診断による「物忘れがない」との自覚は、ある問題提起に対する「自らの記憶と照合」することでしか判断を下せないと思うからである。つまり、自らの記憶との対比があって始めて、「忘れた」、「忘れていない」、「最初から覚えていない」などが言えるのではないかと思うのである。

 例えば「ある記憶を忘れてしまった」場合、本人にとってその記憶は「忘れてしまった」という事実からして、既に記憶から消去されていることになる。だから、「忘れてしまったこと」そのものを自覚できないことを意味する。つまり「忘れてしまったのか」それとも「最初から記憶していなかったのか」の区別がつかないのではないだろうか。「忘れてしまったこと」を、どうして本人が「忘れた」と自覚できるのだろうか、これが自己矛盾である。

 極端な例を考えてみよう。例えば認知症になって、「妻の顔を忘れた夫」がいるとする。そんな例はいくつも聞いたことがあるから、突飛な例や、不自然な例、あり得ないケースではないだろう。客観的に見る限り、こうした症状は明らかに認知症である。専門医の診断を待つまでもなく、素人にだって分る症状である。

 ところがその夫にしてみれば、「妻の顔の記憶がない」のであるから、目の前でにこやかに笑いかけている女性の顔は、「忘れた顔」ではなく「会ったことのない他人の顔」のはずでである。「妻の顔を忘れてしまった」という現象を理解できるのは、夫たる本人以外の肉親や知人などに限られるのであり、本人に「忘れたこと」の自覚を求めることそのものが自己矛盾である。「妻の顔であることを忘れてしまった」という自覚を、少なくとも夫自身に判断を求めることそのものが無理だと思うのである。

 目の前にある顔が少なくとも「知っている顔」としての記憶が残っている場合は、その顔は「妻でない他人の顔」であり、そうでなければ「知らない顔」になるからである。

 まずは「忘れた」と発言すること自体が矛盾となる。忘れたということは、「かつて覚えていたこと」を記憶しており、その記憶と「今現在も覚えているかどうか」とを対比することで始めて判断ができると思うからである。

 私は「記憶」には基本的に大切な作用があると思っている。それは「忘れる」という機能である。忘れることができるからこその、記憶だと思うのである。私たちは毎日の生活の中で、「大量の記憶と大量の喪失」を繰り返しているのだと思う。記憶は一時的に保存されるけれどすぐに消滅し、大切な記憶だけが脳の別の場所に長期記憶として保存されると聞いたことがある。

 「大切な記憶かどうか」の判断は結局本人の選択によるのだろうけれど、何が「大切」なのかの基準はよく分からない。我が身を振り返ってみると、どうってことのない「下らない」と思われるような記憶が、数年、数十年を経て、不意に沸き起こってくることはごく当たり前に存在している。それは記憶していたという意味において「下らない記憶」や「無駄な記憶」なのではなく、「大切な記憶」だったのだろうか。

 また、忘れてしまえばより楽しい人生を過ごすことができるだろうと思われるにもかかわらず、不快な記憶がいつまでもしつこく残ることだってある。つまり、むしろ不要と思われ大切でないと思われる記憶にもかかわらず、脳はそれを保存し続けている場合もある。

 もしかすると「残されている記憶」、「忘れない記憶」というのは、記憶している本人の意思によるのではなにのかもしれない。もしかしたら、そもそも「忘れる」ことそのものが、「大切さ」とは別の基準で選別されているのだろうか。

 私も齢77歳を過ぎて、平均値としては既に認知症予備軍に入っていることだろう。既に人の名前が思い出せないなどの現象も見えているから(これには顔と名前という二つの記憶があって、顔の記憶はあるものの、もう片方の名前の記憶が呼び出せないことで「忘れた」ことが確認?、想定?できる)、予備軍の範囲を超え認知症領域に踏み込んでいるのかもしれない。

 前述した人の名前だって、顔と名前の片方の記憶が残っていることで始めて「忘れた」ことに気づくのであって、仮に両方とも記憶になければ「忘れたのか」、それとも「最初から会ったことがなかったのか」の区別は、少なくともつかないことになるだろう。

 ただ「忘れる」ことは、少なくとも「忘れる本人」にとってはそれほど大きな問題ではないような気がする。預金通帳のありかを忘れたり、妻の顔を忘れたり、はたまた自分の家を忘れて徘徊するようなことがあったとしたら、周囲の者にとっては確かに大変なことかもしれない。しかし、「忘れた本人」にしてみれば、仮に徘徊が原因で孤独死や路傍死をしたところで、「その死を悔やむ気持ち」が忘れた張本人であるその人の意識の中にどれほど深く存在していたかを考えてみると、それほどの大問題でもないように思えてくる。


                                     2017.4.28        佐々木利夫


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物忘れの判定