これから書こうとしていることは、恐らく世の中の誰もが納得しないことだろうと思っている。ただ同時に、その「納得しない」のはその思いを他者に表明する場合に限られるのであって、内心のどこかでは誰もが抱いている私と共通する「納得しない暗闇」なのではないのかとも思っているのである。
数日前のテレビの朝のニュースは、障害児の育児にかかわる母親がいかに大変か、行政などの支援がいかに不足しているかなどを取り上げていた。障害児に対する支援の法律が最近改正されたにもかかわらず、現実の支援がそこまで行き届いていないことも報告していた。
内容的にはしごく当たり前の報道であった。「障害者にも健常者と同じように生活する権利がある」などと主張すること自体が、おこがましく感じられるほど当たり前の主張であった。それと同時に、障害のある者に対して社会の人々もまた「互いに育てる」という意識が必要であるとの主張にも、頷けるものがあった。
話としてはこれで終わりである。「みんな仲良く、助け合って」という主張の存在そのものが、裏を返すなら助け合いの環境が実現していないことの現れであるなどと、皮肉を言うのはやめにしよう。お節介な親切まで含めて、人の行動が他者の迷惑になるケースは数多く、だからこそそうした事態を避けようとするのは、どちらかというと世の習いだと思うからである。
この障害者の話だってそうである。「皆で助け合おう」は、もしかしたら人類共通の正論になっているのかもしれない。むしろそうした意見に反論すること自体が許されないかのような風潮すら、世間にははびこっているように思えることすらある。
このテレビ報道の映像は、そうした人々の思いを強調するかのように編集がなされていたのかもしれない。画面に流れている障害者は、手足が多少不自由であるようなケースではなく、寝たきりで30分に一回痰の吸引が必要な幼児であったり、会話もできないまま無反応に空を眺めている寝たきり児童だったからである。
それを見ていて、突然思ったのである。介護の大変さは分った。しかもその子には、母親だけでなく他の家族や近隣や行政などの支援が絶対的に必要であることも分った。分った上で、誰が支援するのか、どこまで支援するのか、その費用を誰が負うのかなどについて、私のへそ曲がりと残酷さが頭をもたげてきたのである。
放送では障害児に対する支援を、ボランティアに委ねるような意味合いは、少しも見られなかった。だから、放送する側の意見は、行政や医療による支援をもっと手厚く、もっと充実させようとする方向へ誘導したいとする意図が強かったのだろう。
そうしたとき、支援に要する費用負担をどうするかについての報道が少しも考慮されていないことに、私は少なからず違和感が残ったのである。「すべてをボランティアに委ねる」とするなら、それはそれで一つの解決であり、方向であると思う。そしてそうした方向へ進むべきであるとするなら、それは一つの提案として承認できるし、理解できる。
だが、そうしたボランティアとか親切などを離れて、例えば行政、例えば医療、例えば福祉などに業務として介護を委ねることを前提としたとき、その費用を誰が負担するのかはとても重要なテーマだと思ったのである。そうした場合、例えば寄付を募る、税金を使う、健康保険料や介護保険料などの形で国民に負担に求めることにならざるを得ないだろう。寄付がまっさらな善意からのみできているかと問われるなら、必ずしも一本道ではないだろうけれど、それでも方向として「寄付を募る」ことはボランティアに集約できるような気がするので、この議論からはとりあえず外すことにする。
残るは税金を含めた公的負担に頼ることである。表現としてこれら国民に求める負担を、仮に「税」という名称に代表させることにしよう。
考えなくたってすぐに分ることだが、国や行政や医療や福祉は、単独で財源を持っているわけではない。仮に国有地の売却のような「たけのこ生活」を考えたところで、それらが継続し安定した財源にはなることはない。すべて国民から集める税金や保険料や医療対価などによる以外に、原資はないのである。国などの公的機関の従業員(つまり公務員など)に無料奉仕をせよ、資材は有志からの寄付を募れと命じたとしても、それが実現するのなら別であるが、命ぜられたところで人材も資材も安定的に集まることはないだろう。
「公的機関の無駄遣いの排除」はよく言われることである。それにより生じた財源を充てようというわけである。ならば、その無駄の排除は誰がどんな風に行うのかと問われると、とたんに歯切れが悪くなる。抽象論としては財源になるけれど、具体的な「無駄遣い」の立証が難しいのである。財源がそう簡単に捻出できないことは、これまでの国会論戦などで明らかである。つまり、財源は国民から集めるしかなく、しかも好き放題に使えるだけ確保できるわけではないのである。
そうしたとき「効率」とか「必要の程度」というキーワードが出てくる。限られた財源をもっとも有効に使おうとするときに、そうした議論の背景にある考え方である。最適解を見つけるための知恵がそこに求められるのである。
さて、ここで問題となるのが「最適解」である。すべての要求を叶えられないとしたとき、「最適解」という考えは必然的に「何を切り捨てるか」という問題に直面することになる。切り捨てる対象の選択である。その選択がどんなに不合理であろうとも、人手が足りないとするか、予算が不足しているとするかはともかく、何らかの理屈をつけて切り捨てる対象を見つけるしかないのである。その対象を「対応できないから」とするか、もしくは「対応しない」と断言するかの理論付けはともかく、切り捨てる、つまり介護などの面倒を見ないことにするのである。
そうしたとき、まず考えるのは「救済の必要度」であろう。例えば障害者であれば、程度の軽い者を除外するという考えである。歩けない人の面倒は見るけれど、少し努力すれば自力で歩行できる人の面倒見ない、両目の失明は援助するが片目だったら自助努力に委ねる、などである。
それはそれていいのかもしれない。ただ私はこの「介助に大変なお母さん」のテレビを見ているうちに、逆のことに気づいてしまったのである。それは、介助することの意味であった。身動きもできず、何の反応もない障害児に、国はどこまで支援すべきかが疑問に思えてきたのである。そうした介護に税金を投じることは、ざるに水を注ぐような、一種の無駄遣いを強いることにもなるのではないかと思ったのである。
「人の命は地球より重い」、そんな言い古された哲学が本当にそうなのだろうかと思ったのである。無駄な治療、無駄な支援、無駄な介護・・・、そんな言い方は、言うことすら、思うことすら許されないのだろうかと思ったのである。相手が困っているなら、国民はどんな犠牲、どんな高額な負担を強いられようとも救済しなければならないのだろか。救助の必要度の低いものへの援助を切り捨てると同時に、救助しても無駄な場合の援助放棄という選択肢もあり得るのではないかと思ったのである。そうした両極端に対する思いが、このエッセイの冒頭に掲げた「世の中の誰もが納得しないだろう」とのメッセージにつながったのである。
こうした考えは、やがて「人とは何か」、「命とは何か」という問題へと私たちを追い詰めていく。例えば無脳症児、例えば植物人間、例えば脳死者・・・、それは人なのだろうか、地球より重い命を持っている「人」と考えるべきなのだろうか。人から生まれたから、その命を社会は「人」と呼ぶのだろうか。だとするなら生まれてくるまでは人ではないのだろうか。生まれるとは何だろうか。中絶される胎児は人ではないのか、胎動があるから「人」と呼ぶのか。受精しただけで、まだ心臓が形成されていない受精卵はまだ「人」でないのか。どの段階から命と呼ぶのか、どこから命は人になるのか。人と交流できる命は人になるのか。「交流できている」と思い込んでいるペットは人や無脳症児ととどこが違うのかなどなど。
私はどこかで「人と命との境目」、「人と人でない命との境目」、「命と無生物との境目」を決めなければならないときが来ているのではないか、と思っている。いやむしろ、そんな風に思い込んでいるのである。
そしてそして、現実の社会そのものが、人であっても救うべき基準があり得ること、命にも軽重があること、そして程度によって「救うか」、「切り捨てるか」の選択をしなければならない時があること、そして現実に「救うか切捨てるか」を前提として社会が成立していること、そんな現代を私たちはどこかで承認していること、そうした残酷さの中に今を成立させていることを、私たちは認めざるを得ないのではないかと思っているのである。そしてそう思うことの残酷さに、どこかやり切れない思いを残しているのである。
2017.6.8
佐々木利夫
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