偏見とはする側の思いではなく、される側の「分ってもらえない思い」だけを意味する言葉なのではないかと、ふと思うことがある。たとえば「偏見する」という言葉(そういう表現があるかどうかは分らないが・・・)を考えてみよう。「偏見する」とは、ある行為が「偏見である」ことを自身が知っていながら、あえて行動として外部に表示することを意味している。

 でも考えてみると、そうした行為は偏見とは言わないのではないだろうか。その表示しようとする意図が悪意か善意かはともかく、「ある種の意志を伴う行動なり表現」というのは、自らの信念に基づいた行動であることを意味している。それは私たちが一般に選択している選挙への投票行動やファン意識、そしていじめや犯罪などの確信犯と同じなのではないだろうか。

 だとするなら偏見とは、その行為の基本となった思いが、例えば一般社会の常識とか慣行などに照らして誤りだと認識されているにもかかわらず、その誤りであることに行為者自身が気づいていない場合を意味しているのではないかということである。

 そうでなければ「偏見を糺す」とか「正しい情報を知らせて偏見を排除する」などの表現が、出てこないように思えるからである。偏見とは、「誤った情報を誤りだと知らずに信じ込んでいる」状態を意味するように思える。

 ここまでを「理解できた」ものとして、話を進めていくことにする。つまりある人の行動が誤解に基づくものだと本人自身が知らないで行動しているということを前提として話を進めていくということである。

 だから確信犯と偏見とは、少し異なっているのではないかということである。少なくとも確信犯は、自らの行動が正しいものとしての自覚を持っていると思えるからである。それは思想の違いであり、常識の違いであり、それを多様性と呼んでいいのかどうか疑問ではあるけれど、「人間としての当たり前の意識」なのではないかと思うからである。

 そうすると偏見とは「正しいことなのに、その正しさをきちんと理解していない」、そんな状態を示す言葉になる。だとするなら、その「正しいこと」の基準がどこにあるのかが問題となる。それは法律なのか、慣習なのか、それとも絶対正義としてどこかに神がかり的に君臨している何かなのか。

 恐らく法律ではあるまい。そうした分野、つまり「思うな」という分野にまで法律が介入しているとは思えないからである。また、絶対正義、完璧な基準といったものの存在も疑問である。

 そうすると「慣習」が残ることになる。慣習とは何か、高校を出て税務大学校に通って始めて民法とか刑法などといういかめしい法律に触れたときに、この慣習という用語に出会った記憶がある。慣習は時に「慣習法」として成立することもあることを知った。

 慣習のきちんとした定義を、私は必ずしも理解しているわけではない。ただ、「多くの人がそのように信じていることども」みたいな中途半端な解釈でしかない。だから慣習と常識の違いもまた、私の中ではあいまいである。そうした中で、確信犯の位置づけに私は悩むのである。

 私は、偏見とは人間に備わった基本的な性質なのではないかと思う。私たち人類は、爪もなく牙ももたないひ弱な生物として進化してきた。ひ弱であることを前提に、生き残るための様々な手段を獲得してきたのだと思う。その一番の特徴が、逃げることではなかっただろうかと思う。逃げるとは危険からの回避である。ひ弱な生物が生き残る最大の選択肢は、危険からの回避することである。

 そうしたとき、逃げるための最大の手段が危険な状態を察知することである。ここに私は偏見の根拠を見る。偏見とは「警戒せよ」と同義語ではないかと思うからである。

 目の前のある事実が「危険であるかないか」、それは自らの生死に結びつく重大な判断要素であり、種の存続につながる選択でもある。選択を間違うことは、そのまま己の死、種の死を意味する。もちろん、危険か危険でないかをきちんと判断して、その結果に基づいて自らの行動を決めることが正しい選択である。だが、その危険度を確かめることの中に、危険そのものが内在していることに注意すべきである。時には状況を確かめきれない状態の中でも、人は危険の程度を判断しなければならないのである。

 それが生き残る術なのである。仮に間違っていたとしても、「まずは危険」と判断してその事象から遠ざかる、それが弱者にとって生き残るための必須の要件になるのではないだろうか。安全と分るのなら、その選択に従うがいい。だが「分らない」ときにどうするのか。得体の知れない対象に「近づかない」ことこそが、生き残るための要件になるのではないだろうか。

 だから人は偏見を大切にするのである。見た目で人を判断する。よそ者はとりあえず警戒する。第一印象を信じて、リクルートスーツを身にまとう。着飾った見合い写真を撮る。異民族を排斥する。商売の後継者を親族から選ぶ。会社経営を血族で固めるなどなど・・・。

 人は人を容易く理解することはできないのである。少なくとも理解にはある程度の時間が必要なのである。それでも人は間違うのである。そして裏切られるのである。

 そうしたときの最も確実な安全策は「警戒せよ」だと思うのである。不確かな情報であっても、「まずは危険と判断しその対象から遠ざかるような選択をせよ」、これこそが最も大切な生き残る術なのである。ある病気が蔓延している。それは伝染病なのか遺伝によるものなのか、またはある種の食物による中毒なのか分らないとする。

 伝染病ではなく、不衛生な井戸水のせいだと、何の疑いもないまでに判明したのならそれを信じることでこの危険を解決することができる。でもその原因が分らないとき、根拠もないのに伝染病を疑って、その病人に近づかないような選択をすることは、まさに偏見である。でも私には正しい選択であるように思える。

 なぜなら、その病人の近くには、たとえ伝染病でないにしろ不衛生な飲用水や食物などが存在している可能性があるからである。病人に近づかないことで、私はそうした危険からも遠ざかることが出来るからである。そしてその危険回避の効果は、私自身のみならず私を囲む家族や隣人の安全にもつながることは言うまでもない。

 「またも警官の不祥事」、「繰り替えされる教師のわいせつ」、「税務職員の汚職続く」、「止まらないゼネコン汚職」・・・、少数者の不祥事で全体を判断するのは、もちろん偏見である。黒人、貴族、会津っぽ・・・、人種や出身地で人を判断するのも偏見である。それにもかかわらず「○○には気をつけろ」と人をグルーピング化して差別し区別することは、たとえそれが偏見であろうとも生き残るための大切な手法だったのである。

 偏見は時に間違った思い込みにつながることもある。それを科学的に間違いだと指摘することは容易である。それでも人は科学根拠だけで行動しているのではない。宇宙飛行士は、自らの呼吸や糞尿から再生した水を飲用に供すると聞いたことがある。科学的に浄化された水なのだろう。あなたはそれを水道水と同じように思えるだろうか。

 また、最高裁の判例に他人から小便をかけられた名器と呼ばれる茶碗について、たとえきちんと消毒されたとしても器物損壊罪に当たるとした事例を思い出す。人はどこまで科学を信じることと、情緒的に納得できることとを整合化できるのだろうか。

 ここでもう一度、絶対正義の判断に戻ってみよう。誰が、どのように宣言したときに、人はそれを絶対正義と感じることができるのだろうか。○○ミリシーベルト以下の放射能は人体に危険はない安全だ、と国が宣言したら、それは絶対正義になるのだろうか。たとえそこに政治不信があったとしても、その宣言を絶対的なものだとして信じなければならないのだろうか。

 情報過多の現代社会の中で、偏見もまた私たちを守る大切な信条になっているのではないだろうか。人の心は偏見で出来上がっている、人体の構成要素は偏見である、人は偏見で生き延びてきた、偏見は人が人であることの基本である、偏見が社会を作り上げている・・・、こんな風に考えるのはやっぱり偏見なのだろうか。

                                     2018.7.6        佐々木利夫


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