クロスボーで頭を射抜かれたサルがいた。傷は重かったようだが、まだ生きていたようである。そのサルを保護した市職員か警察官かその辺は分らないが、彼は獣医師と相談して「弱っていて回復も期待できない」として、そのサルを安楽死させたとの報道があった(2018.9.19、HBCニュース)。

 とりたてて取り上げることもないような、当たり前の事件である。足を骨折した競走馬を安楽死させるとか、ペットの犬猫を老齢やガンなどの理由から安楽死させるなど、そんな事件は日常的に珍しくなく発生している。

 その動物の死を、管理者・担当者というか飼い主もそれなり悲しんでいるとは思うけれど、少なくとも安楽死によりその動物を死に至らしめたことについては、何の疑問も感じていないような気がする。むしろ、「仕方ない」という気持ちと、「この選択に誤りはない」との気持ちがない交ぜになっているような感じさえする。

 でもそれはあくまで「管理者なり飼い主の感情」であるに止まり、対象たる動物の思いはそこに何ら反映されていないことに、関わった人間自身は少しも気づいていない。

 そもそも動物に「安楽死」の観念があるのだろうか。もちろん「安楽死」とは何かという問題は、私の中でも解決していないし、もしかしたら社会により人により異なった解釈があるのかもしれない。そこのところは、今は触れることなく、「安楽死」は私たちが難しく考えることなしに予め決められているものとして進めていくことにする。

 もちろん安楽死を絶対に認めないとする考え方だってあるだろう。それはそれで尊重するけれど、ここでは安楽死を承認する立場から話を進めていきたい。ここで論じたいのは安楽死の是非ではなく、安楽死を認めた上でのその要件を考えたいからである。

 それでは安楽死の要件とは何か。それは何にも増して死にゆく者自身の、揺るぎない死への願望である。死への願望と自殺願望とはどこが違うのかと問われると返答に困るけれど、己の死に対する願望が揺るぎないものとして確立していることは絶対に必要であろう。

 それでは、死への願望の背景には何があるのだろうか。死の願望には様々には様々な要素が考えられるだろう。見方としては、極めて利己的な自分だけの思い込みみたいなことから、客観的に理解できるような背景まで、雑多に存在するような気がする。

 そうした中で「自己だけが感じ、他者には理解できない要素」として、「耐え難い苦痛」が上げられるのではないだろうか。他者の苦痛は同情はできるけれど、どうしても体感することなどできないからである。仮にかつて苦痛に苦しんでいる他者と同じ経験をして、同じ苦痛を味わったことがあったとしても、苦痛に苦しむ者の苦痛そのものは、少なくとも本人固有のものであって他者の体感する痛みではないということである。

 この点だけ考えるなら、それは自殺願望と少しも違わないことになる。では安楽死に必要となる次なる要件とは何か。それは死にゆく者とっての「苦痛のない死」もしくは「苦痛を感じない死」への願望である。それが「安楽」という文字の意味するところである。

 だがそれでも、それだけでは安楽死の十分な説明になっているとは思えない。例えば睡眠薬など苦痛の少ない薬物による自殺や苦痛の少ない手段による自殺などとの区別がつけにくくなってしまうからである。

 だとするなら安楽死の要件には、「苦痛と不治、そして本人の死への願望」がどうしても必要になってくるのではないだろうか。そして自殺願望と異なることは、その願望が客観的に示されることにあるように思う。

 もちろん苦痛はあくまで本人自身の感覚でしかない。どんなに「痛い」、「苦しい」と言ったところで、その痛みや苦しさは、例えば何らかの装置によって客観的に数値化して示されるようなことはないだろう。それは単にレベル5の痛みならまだ耐えられるだろう、レベル9を超えた痛みは人間の我慢を超えるものだろうなどと、判断できるような性質のものではないだろうということである。

 痛みなり苦しみを数値化することはできないだろう。ある痛みに「耐えられない」と訴える者もいれば、「まだまだ我慢できる範囲だ」と我慢を主張する者もいるだろうからである。それでも「本人の意思」は確認することができる。たとえ「それぐらい我慢できる」と他者が考えたところで、その程度こそ本人に委ねるべきであろうからである。

 ただ、「不治」については、自己判断は無理だろう。恣意性に委ねることはできないと思うからである。そうしたときその判断は第三者、しかも客観性が求められるから医師による判定が妥当だろう。だが、「不治」が死の承認につながるとは思えない。人為によらない自然死(事故死なども含む)以外の死と言う概念として、私は死刑や殺人による死しか考えつかない。つまり、不治を理由とした死を認めることは許されないと思うのである。

 さてここで唐突ながら本件の、クロスボー被害のサルに話を戻そう。サルは人類に一番近い種として考えられている。猿が簡単な計算をすることができたとか、ゲームに参加したり、飼い主との間にある種のコミュニケーションが形成されたなどの話を聞いたことがある。またペットと飼い主の間における意思疎通は、それがどこまで本物かどうかはともかく、「通じ合っている」と信じている者が多いことも知っている。

 でもそれがどこまで動物の意志として理解できるのかは、またどこまできちんと証明されているのかは疑問であり確立されているとは言えない。まだまだ、人と動物の間にきちんとした意思疎通などできていないと考えられる。ましてや、「安楽死」のような自らに対する観念的な意思が、サル同士とか猫同士ではともかく、人と動物の間に成立しているとは考えられないのである。

 動物の安楽死は、動物の意志を忖度する人間の意志でしかない。猿が自らの死を望んでいることを、人間は知りようがないと思うからである。自死への願望は、猿自身の意志ではなく、その猿を囲んでいる人間の意志なのである。そしてそれはあくまでも「忖度」なのである。

 つまり、「猿はきっと自死を望んでいるに違いないと私は思う」、ただそれだけのことではないかと思うのである。思うのは猿ではなく、「私」つまり人間だということである。

 人は同じ人の気持ちも分らないように作られている。推測したり忖度したりはするけれど、理解はできないのである。そんな風に人は作られたのである。ましてや人類以外の犬猫や牛馬など、どんな生物の気持ちも分るようには作られていないのである。

 だからこそ人は生きていけるのかもしれない。時に他者の気持が分ったり、合致することがあるかもしれない。でもそれはあくまで誤解であり偶然であって、気持ちそのものが理解できたわけではない。増して犬猫においておや・・・、なのである。

 そうしたとき、どこから安楽死の発想が出てきたのだろうか。つまり、犬猫はもとよりサルや馬も、仮に安楽死を望んでいたとしても、それを人間が理解できないのに、どうして安楽死という観念が出てきたのだろうかということである。

 それははっきりしている。それは動物の意志ではない。飼い主というか管理者というか分らないけれど、その生死の与奪権を握っていると自認している者の勝手な意志だということである。そこに動物の気持ちなど一つも入っていないのであり、単なる飼い主の自己満足でしかないということである。

 「安楽死」などというと、いかにもその動物が自死を望みその死を自ら選択したかのような印象を受ける。だが動物自らが自死を望んだなどと言う、そうした意志の交換を人と動物との間でできることを立証できた事例を私はまるで知らない。またそうした文献を見たことも読んだことも、聞いたこともない。

 確かにペットと互いの意志を交流したとの話を聞いたことはある。だがそれは人間が自らのペットと交流したと勝手に信じ込んでいるだけで、その事実を客観的に示すことなどできない。

 だとするなら、動物と人間の意識の交流など、全くのフィクションである。「安楽死」との名称を付したのは、「死はこの動物自らの意思によるもので私とは無関係であり、私にその死の責任などありません」との言い訳をそこに重ねたいからだけのことにしか過ぎない。「動物自らが、自死を望んでいる」というフィクションをつくりあげ、そこに飼い主が、「私は何という慈悲深い飼い主であったことか」という自己満足を重ねたいだけのことなのである。


                                     2018.9.26        佐々木利夫


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安楽死は誰のものか