貧乏だが正直者で他人にも優しい爺さん婆さんがいて、片方に意地悪でケチな大金持ちの爺さん婆さんが近くに住んでいる。いずれ立場は逆転することになるのだが、おとぎ話に表れる定番の設定である。

 そして、逆転する過程がおとぎ話の骨格になるのだが、なぜか金持ちの爺さん婆さんは、物語の始めから金持ちであり、その歳になるまで裕福で贅沢である。他方はこれに反して、爺さん婆さんになるまで貧乏であり、貧乏であることを少しも気にしないでゆったりと暮らしている。たとえ正月に食う餅がないとしても、それはそれで特に不幸だとは感じていない。

 私はこうした物語の、なぜ金持ちの爺さん婆さんがその歳になるまで、つまり人生の終焉を迎えようとするような年齢まで金持ちでいられたのか、その説明のないことに引っかかるのである。ケチでいじわるとの設定なのだから、もしかしたら悪事を働いて、それで財産を築いたのだろうか。それとも、商才に長けていて、それで金持ちになったのだろうか。

 私たちは、得てして「金持ち=悪人」、「貧乏人=善人」といったパターンに分けがちである。それは金持ちが少数で貧乏人が多数という数の差による偏見なのか、それとも実質的な善悪がその差に含まれているのか、必ずしも納得出来る答えは見つからない。金持ちにだって善人はいるだろうとか、悪人の貧乏人だって存在すると言った論調は、「それはそうだろうけれど」と言う曖昧さの中に埋没してしまい、実証的な背景を持たないからである。

 ドラマなどではそうした構成が理解しやすいのか、そんなパターンが理屈なく登場する。日本だけかと思ったら、外国でも似たような傾向がある。
 例えば007の映画でも、正義はもちろんイギリスの国家予算を使ったスパイだが、敵対する悪は無条件に大金持ちになっている。それは単なる企業規模を超えて宇宙船を使って国家侵略を狙うまでの規模にまでなっている。

 スパイダーマンやバットマン、シャーロックホームズの物語から銀行の貸金庫を狙う強盗団にいたるまで、悪はなぜか大金持ちである。それはつまるところ、大金をもっていないと大規模な悪もまた実行できないということなのだろう。社会や国家を揺るがすような巨悪に対抗してこその正義なのだから、互いに人材や設備が必要であり、そのためには財政的な裏づけが求められるということなのだろう。

 そして結論としてそこには「勧善懲悪」としてのストーリーが求められる。悪は、その悪の程度が強いほど制裁としての正義が生きてくるのである。

 そしてどんな悪も、金の使いみちからくる判断であって、その金がどうしてその者に帰属したのかを、問われることはほとんどない。

 日本の意地爺さんは、金持ちであること」だけで「その者が意地悪であること」が、証拠なしに承認されることになっている。つまり、金持ちであることがそのまま、意地悪の証拠とされてしまうのである。

 まあ、背景には、「金持ちはきっとあくどい金儲けをしているに違いない」、「正直者には金持ちになる手段がないに決まっている」などの、どちらかと言うと偏見みたいな思いがあるように思える。つまりは証拠なき認定である。それはどこからくるのだろうか。もしかしたら、「金持ちが羨ましい。しかし私は金持ちになれない(金持ちでない)」とする嫉妬心があるのだろうか。

 007などの物語では、正義にもまた悪が投下した以上の金がかかることになっているけれど、一般的には「正義や正直には金がかからない」のが原則なのである。

 そして、正直の対価・報酬もまた金であることが分かる。花咲か爺さんは、ポチの「ここ掘れワンワン」で木の下から大判小判が出てくるし、意地悪爺さんに殺されたポチの遺体を埋めた場所に育った木から作った臼からは餅を突くたびに小判が出てきて、その臼を焼かれた後はその灰を枯れ木にまいて花を咲かせ、通りかかったお殿様の賞賛と褒賞を受けるのである。

 舌切り雀の小さいつづらの中味はお金や宝石だったし、傘地蔵では優しい貧乏爺さんに傘をかけてもらった地蔵が、正月に向けて金銀財宝を贈るのである。

 こうした物語は、必ず「正直者が富を得て幸せになる」という結末を迎える。つまり、貧乏人も正直であることによって金持ちになる、というのが寓意なのである。お金は幸せなのである。究極の幸せは金銀財宝にあることが、多くのおとぎ話の中に定番として組み込まれている。

 しかし、物語の発端は決してそうではない。貧乏な老夫婦は、決して貧乏であることを不幸だとは思っていないのである。「金が欲しい」などとは、決して思っていないのである。むしろ、「正直であること」の中に幸せを感じて生活しているのである。

 それがいつの間にか、「正直の報酬として大金が与えられる」、「そして、それから幸せにくらしましたとさ」となり、「めでたし、めでたし」と結ばれるのである。やっぱり、お金は幸せなのである。「正直であること」は本当の幸せでないと、おとぎ話は手を変え品を変えて、子供たちに教えているのである。

 それは、「正直であれ」と教えているのだろうか。それとも「正直でいると、そのうち大金持ちになれるよ」と教えているのだろうか。もし前者なら報酬などなくても「正直であること」そのものが幸せであり、せいぜい「死んで天国に行けました」くらいで物語を終わらせても良かったように思える。どうして対価として報酬など与えてしまったのだろうか。

 もし後者、つまり正直には報酬が伴うことを教えたかったのだとするなら、金持ちの意地悪爺さんは、かつて正直者だったということになる。そして金持ちになったとたんに、意地悪になってしまったということなのだろうか。

 「金が敵の世の中」という言い古された言葉がある。そして私たちは、金持ちを金持ちであることだけで差別し批判する風潮がある。一ヶ月前、日産自動車の会長カルロス・ゴーンが逮捕された。容疑は年20億円以上ともされる高額報酬を、数年にわたって有価証券報告書に正しく記載していなかったというのである。

 どこまで正しいのか分からない。拘留延期の申請を裁判所は認めなかったので、今日にも保釈かとニュースはわめいている。世論は、「こんな高額な報酬を貰っているのに・・・」と、既に金持ち批判で溢れている。理屈ではない、「金持ちであることが悪いのだ、しかも、私以外の金持ちならなお更に」そんな風潮が世間を賑わしている。


                            2018.12.20     佐々木利夫


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貧乏と金持ち