Aが正しいのかBが正しいのか分らない、という高校生がいる。そのとっても素直な感触に、そうした気持ちをいつまでも持ち続けてもらいたいものだと思いながら、この投書を読んだ。

 「人を傷つける人も認めるべきか」と題する、新聞投稿であった(2018.4.20、朝日新聞、16歳、東京都、高校生)。彼はこんな風に悩んでいる。

 「『みんな違ってみんないい』。僕はこの言葉が大好きで・・・素晴らしい言葉だと思っていました。でも最近、疑問が芽生えてきました。なぜなら、世の中には人を傷つけるようなことをする人もいるからです。・・・『みんな』には人を傷つけるような人は含まれない、・・・たとえ人を傷つけるような人であっても・・・受け入れるという考え方、・・・どちらが正しいのか分りません・・・

 恐らくこの答には、どちらにも正論があるのだろう。それを建前と本音と名づけてもいいだろうし、世の中そんなもんさと片付けることだってできるかもしれない。それでも私たちは、こうした矛盾とも言える両論併記の世の中を、いともあっさりと過ごしている。

 恐らく識者に言わせるなら、「みんな」には人を傷つけるような人も含めたすべての人が含まれると言うことだろう。それこそが人間としてありうべき姿であり、そうした許容性こそが世界の平和や人としての平穏に結びつくのだと言うことだろう。

 こうした考えに反論することは難しい。人類みな兄弟、善人なをもて往生をとぐ いわんや悪人をや、性善説、罪を憎んで人を憎まずなどなど、人間に基本的な悪人はいないとする考えは、世の中にそれなり観念として広まっているように思えるからである。

 この投稿を読んで、彼はこれから同じような疑問に何度も何度もぶつかっていくのだろうなと思った。むしろ人生はこうした迷いの中に存在しているのであり、極端に言うなら「迷いこそが人生」だと言ってもいいような気がしている。

 投稿した高校生は「どんな人も人として認めるべきか」と問う。私たちは多様な世界に生きている。そうした多様さを、個性などという美辞麗句で表すのはやめよう。「みんな違ってみんないい」は詩人金子みすずの作品の一つだが、彼女の「いい」は「ひっくるめて承認する」ことを意味している。

 それはどんな考えなり思いを持つ人の存在も、そのままの形で是認することにある。それは多様さの承認であり、「清濁併せ呑む社会」の承認でもある。だが私たちは、基本的に悪を認めないとする社会を作り上げてきた。それは「悪」を認めないと言うことであって、「人」を認めないと言うことではない、と反論するかもしれない。聖書に言う「罪を憎んで人をにくまず」と同じ意味である。

 だが、「悪」は単独に「悪」だけで存在しているのではない。「悪」だけに抽象化して認めるわけではないが、悪もまた常に「人の行動」とともに表れてくるのである。人の行動に悪があるということは、悪人という存在を前提としているということである。そして私たちは「悪人が存在する」ということを前提とした社会を作り上げてきたのである。

 そしてここに「悪の程度」という、どうにもやり切れない判断基準を持ち込まざるを得なくなってくる。道で一円玉を見つけたとき、私たちは「無視するもしくは放置する」、「拾うか、もしくはその事実を管理者に報告する」、「拾って自分のポケットに入れる」のいずれかを選択することになる。法的な悪か、同義的な悪かはこの際置くとして、悪はこの程度の問題から始まる。

 ひもじさに耐えられず店先のパンを万引きする、権力者の収賄を知りながら黙って見過ごす、他人の金を盗む、人を殺す、戦争を煽り自ら指導する・・・。そうした行為のどこかで、私たちはその途中にある種の線引きをする。「ここまで、これを過ぎず」の「ここ」である。線引きとは、その線を越えた者や思いに対する差別であり区別である。そして悪は人と結びつくことによって悪人となり、悪人を犯罪人として自由を拘束し、時に死を課す。

 嫌いな人間と話をしないことや、好きな人とだけ付きあいたいと願うことも含めて、私たちは均等な人間関係をそもそも否定しながら生きているのである。「嫌いな人も人として認める」とは、決して均等な人間関係を意味しているのではない。仮に無関心な人間関係ですら、私たちは「人として認める範疇」に無意識に含めているのである。

 投稿した高校生は、これからの長い人生をこうした矛盾に囲まれて過ごしていくことだろう。彼の問いは、もしかしたら答のない問いなのかもしれない。そして答がないにもかかわらず、彼はそうした問いにぶつかるたびに無理やりに答を出して生きていくことだろう。それを人生というのかもしれない。

 そしてそうした問いに人は鈍磨し、すれ切れ、やがて問いかけることすらしなくなる時がくる。それを人は進歩と呼び、成熟と呼び、大人になったと呼ぶ。「疑問を感じなくなった私の存在、感じることに鈍くなった私の存在」、それが「人として生きる」ことであり、大人になることなのだろうか。この高校生に、どこまでも悩み続けてほしいと私は思い、できれば答を出さないでほしいものだと、彼の投稿に願うばかりである。なぜなら、答は恐らく片方にしかないと思うからである。


                                     2018.5.4        佐々木利夫


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