フェイクニュースとは直訳するなら、「嘘のニュース」のことである。エイプリルフールにおけるアメリカの有名な新聞記事のこともあるし、様々な意図を持って世界にニュースとしての「嘘が流れる」ことは、昔から数多くあったことだろう。

 それでも最近になってこの言葉が世間に流通し始めたのは、恐らく背景にインターネットの普及があることにあるだろう。かつてニュースは基本的にメディアが発するものであり、いわゆる報道がニュースを誘導し、もしくは時の政権や富裕な経済人がなどがメディアを利用して自己に有利なニュースを発信することが多かったように思う。

 それが最近は、驚くべき速さで誰もがニュースの発信者になることが可能になった。フェイスブックとも、SNSとも、ラインなどとも呼ばれる私も知らない分野で、メデイァに無関係な一私人がニュースの発信者になることが可能な時代が、既にきているのである。

 発信者が多ければ多いほどニュースの数そのものは多くなるだろうし、フェイクと呼ばれるような内容も多くなってくるだろう。もしかしたら、発信者の増加は、そのままニュースの質の低下とも直接関わってくるのかもしれない。

 何がフェイクなのか、どこがフェイクなのか、多様なニュースの中でそのことが分りにくくなっていることは事実だろう。だから、その真偽を見極めるのは自分自身の責任だ、と言うのは正しい発言だろう。嘘に惑わされるの自分自身であり、その自分自身の集合として市民なり国民という集団の意識が形成されるのだろうからである。

 そこまでは正しい。だがどうしたらそれが可能なのか、どこに目をつければ、フェイクかそうでないかの判断がつくのかと問われると、とたんにその基準が見つけずらくなっなって来る。

 朝日新聞は「広がるフェイクニュース」と題する特集記事を組んだ(2018.4.22、朝日)。その中で、白鴎大学客員教授という肩書きを持ついわゆる専門家がこんなことを書いていた。

 想像力のスイッチをいれるために四つのポイントを考慮すべきだと前置きした上で、「まだ分らないよね?」、「事実かな、意見・印象かな?」、「他の見え方もないかな?」、「隠れているものはないかな?」を掲げたのである。

 言ってることは分った。だが、彼はこのポイントを個人個人が自分の力で考えろというむのではなく、結論として「自動車社会では自己を起こさないためにまず教習所に通います。ネット社会の安全運転も同じこと。子どもだけでなく、先生も保護者も、年代を問わず、今こそメディアリテラシー教育が必要だと思っています」としていることに、落胆したのである。

 これでは四つのポイントを上げたことが、何の意味ないことを自ら宣言したのと同じではないのかと思ってしまったからである。

 まず、「メディアリテラシー教育」の意味が、どこにも書かれていないことが気になった。恐らく「メディア」とあるだから、恐らく「発信されている多くのニュース」を意味しているのだろう。まだ「リテラシー」とは読み書きの能力のことだから、言って見れは「メディアリテラシー教育」とは、情報を正しく読み解くための教育という意味にしか過ぎない。

 つまり、フェイクニュースに惑わされないためには、「情報を正しく読み解くことが必要であり、そのためには子ども大人をとわず教育が必要だ」と言っているだけに過ぎないからである。そこには、筆者の掲げる四つのポイントに関する中味が一つも含まれていないのである。

 ここには、フェイクニュースに惑わされないためには、フェイクニュースに惑わされないような教育が必要だ、というトートロギー(同義反復)が掲げられているに過ぎないように思えるからである。

 私は教育が必要ないなどと言っているのではない。四つのポイントみたいなセオリーを掲げて、これだけでフェイクが完璧に見分けられるみたいな言い方をしておいて、一方でそれを全面否定して「何たって教育こそが鍵だよね」と答を投げ出しているような姿勢に、どこか無責任さを感じてしまったのである。

 戦争や犯罪なども含めて、何が正義で何が悪なのか必ずしもきちんと分っているわけではない。だが、「教育すれば、何事も解決する」と考えるのは、教育に対する一種の驕りではないだろうか。安全運転教育をすれば、自動車社会は安全になるのか、答は毎年の交通事故の統計を見れば明らかである。殺人や窃盗が犯罪で嘘をつくなと、私たちは子供の頃から教育されてきた。それで、犯罪の皆無な社会が世界中で完成しつつあり、間もなく世界から犯罪が消えてしまうだろうことは、毎日の新聞記事から明らかである。

 戦争は悪だと教えられたことで、世界から間もなく戦争は完全に消えてなくなることだろう。それもこれも、すべて教育の力である。教育すれば、教育したような社会が実現するのである。私たちは教育の成果によって、犯罪や戦争が皆無な世界の実現を目の前にしているのである。僅かに残る(?)犯罪社会や戦争社会やテロなどは、教育を受けなかった者たちの、未成熟な極小社会だけの出来事である。それは単純に「教育を受けなかった」者たちの例外的な世界での現象にしか過ぎないのである。

 私たちは、「ないものねだり」をあたかも神格化し、そうした社会が「実現可能」であるかのように錯覚しているのではないだろうか。人は時に利己に走り、時に利他をないがしろにする、そんな事実を所与のものとして受け止め、そうした社会の存在を見据えた上で、「私たちの未来を構築すること」はできないのだろうか。


                                     2018.4.27        佐々木利夫


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