今年も3.11がやってきた。2011.3.11から満7年になる。東北大震災に福島原発事故が重なって、私たちは経験したことがないほどの被害を被った。そして、3.20はオウム真理教による地下鉄サリン事件から満23年になる。
どんな出来事も、そしてその出来事が当事者にとって悲しい思い出を伴うときは、忘れられない様々な記憶を押し付けてくる。そして「日薬」(ひぐすり)と呼ぶように、時の経過はあたかも時そのものが薬ででもあるかのように、その悲しみを少しずつ薄めていく。
そうした時による記憶の薄まりを、私たちは風化と呼ぶ。だから、風化は時の経過による治癒効果だとも思えるのだが、その風化を防止すべきと主張する人の思いもまた私たちの身近に数多く聞かれる。
風化についてはこれまで何度もここへ書いてきたような気がする。それは、風化とは忘れていくことを意味し、忘れていくことは人にとっての必然であり、かつ癒しの効果を与える大切な能力の一つなのではないかとの思いからくるものであった。
だがこの風化を、「忘れてはいけないこと」に対する逆流ではないかと考える人がいる。記憶には、「忘れたほうがいい方向」への経過をたどることが望ましいものと、「忘れてはいけない」として保持すべきものの二つが存在するのだろうか。
私が風化を考えるその背景には、いつも「人はどんなことも忘却する」ことを前提としていた。同じ私の記憶であっても、今日の記憶と明日の記憶とでは、例え目に見えないほどの僅かにもしろ、忘却というフィルターを回避することはできないとの思いを基本としているということである。
ところで今回、風化に対する視点を変えてみると、そうした忘却のフィルターという側面に加えて、極めて時間的というか物理的な現象として説明できるのではないかと感じたのである。
風化という問題は、基本的には「人の記憶」の程度を基礎としていることに違いはない。そして風化とはその記憶が忘却とし言うフィルターを通ることで次第に薄れていく現象を示しているのだろう。そうした意味で、忘却と風化とは密接なつながりを持っていると言える。
だが風化というテーマを考えるとき、それは個人一人の記憶の忘却を示すだけではなく、ある種の母集団というか全体像としての記憶、つまり記憶の集合体と忘却のかかわりを示しているのではないかと思ったのである。
風化というテーマを考えるとき、もちろん「私という個々人における風化」が根っこにあることに違いはない。だがそれは、単に「その人が忘れていく」、「その人の記憶が薄れていく」ことを意味するのであって、決してそれを「風化」とは呼ばないのではないかと思ったのである。
そうした「記憶の薄れ」が、社会とか国家といった集団の規模にまで拡大していくこと、つまり「多くの人間の記憶から忘れられていく」、つまり記憶の総量が減少していく過程を示しているのではないかと思ったのである。
そうすると「風化」とは「私」個人の問題ではなく「人々」という集団が分母になっていることに気づく。そうしてその記憶に対して、「時間とともに」が新たな要件として加わることに気づく。
「時間」と「人々たる集団」を同時に考慮すると、その集団は常に生々流転というか構成員の部分的な発生と消滅の繰り返しの中で成立していることに気づく。人は個体として生まれ、生き、そしてやがて死ぬ、こうした過程を持つ個体が数千、数万、数千万集まって一つの社会なり集団を形成し、そしてそれが時間軸を推移していく。
そうした中で風化とは、そうした集団としてのある特定の記憶の総量が時間の経過の中で減少していくことを意味しているのではないだろうか。だとするなら、風化は、そうした集団の持つ宿命である。当たり前の現象なのだということである。
「今、原発事故が起きた」、これは直接影響を受けた数十万人、間接的にその事実を知った数千万人個々人の記憶の集合としてある種の値を持っていると擬制できる。記憶の総量をどのように数値化するかは疑問ではあるが、仮にその記憶の総量を100としてみよう。
その100は、日本人全体の総量と考えてもいいし、もっと広く世界の人間が記憶している原発事故を知ったときの記憶の総量と考えてもいい。だがその構成する集団に属する構成員個々人の数と内容は刻々と変化していく。
仮に生きている人間の記憶の変化を考えないとしても、死んだ人間の記憶はそこで途切れてしまうだろう。また、事件後に生まれた人間に事件の記憶などないことは明らかである。これを考えるだけで、記憶の総量は自ずから減少していく。生きている人間に忘れるという現象がないと仮定しても、人の集団の記憶の総量は確実に時間と共に減少していくのである。社会における「ある記憶の総量の減少」を風化と呼んでいいのなら、社会は何の手を加えずとも物理的、自動的に風化していくのである。
もちろん、記憶の伝承という手段はある。だが、経験した記憶と伝承された記憶とは、同じものだと言えるのだろうか。伝承された記憶は単なる知識であって、記憶ではないのではないだろうか。また死者の経験をそのまま生まれてくる者に伝えるような輪廻転生は可能なのだろうか。そして加えて記憶は生きている者にとって、忘却という避けられない試練との錯綜がある。
忘れることが、果たしてすべて良いことなのかどうか、断言することはできない。だが、人は多くを忘れ、新しい記憶と代替させることで生き延びてきた。忘却を当たり前のこととして、私たちは生命そして種を維持してきたのである。
「忘れるな」は、どこまで正しい要求なのだろうか。「私にとって、私たちにとって、都合のいいところだけ覚えておいて欲しい・・・」、それがもし「風化に対する反対意見」の根拠なのだとしたら、それは単に被害者を自認する者の身勝手な主張になってしまうのではないだろうか。
2018.3.22
佐々木利夫
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