またしても正論だけの投稿にぶつかってしまった。正論を重ねることが、果たしてどこまで問題の解決につながるのか、普段から疑問に思っていたからである。戦争と平和を並べて、片方を悪、片方を善と置くような議論をいくら重ねたところで、たった一言「だったらどうすればいいんだ」と問われることで、その議論は雲散してしまうような気がしてならないからである。

 「読書百遍意自ずから通ず」と言う。本当にその本を百回ただ読むだけで、その内容を理解できるようになるのだろうか。意味の分からないままお経を百回二百回とくり返したら、それだけでお経が理解できて天国に行けるようになるのだろうか。

 朝日新聞に「私の視点」と題する定例的な論壇の場があり、先日「指導死の定義 虐待と使い分け明確化を」という投稿があった(2030.7.7、投稿者、早稲田大学教授)。

 過度の叱責による指導死という言葉が独り歩きして、教師が萎縮してしまう嘆きを論じたものである。論者の言い分は、現在の社会は「学校内虐待死」とも言うべきものと、本来的ないわゆる「指導」・「叱責」と言った範囲にあるものとの混同が起きているのではないかとの疑問である。

 つまりは、いつも私自身が混乱している「いわゆる程度の問題」に対する疑問である。どこまでが正当な指導でどこから非難されるような指導、つまり、自死や虐待に結びつくような指導になるのかの区分の問題である。恐らく「適正な指導の程度や範囲を超えたもの」を虐待として取り上げることを言うのだろう。つまりこのことは、指導と虐待とは連続していることを意味している。

 論者はこんな風に語る。「・・・指導全体が教師の個人責任追及の対象とみなされてしまえば、萎縮をまねく恐れがあることだ。・・・教師は子どもを叱れなくなる。ただでさえ学生が教師をめざさなくなるなか、優秀な人材の確保はますます困難になりかねない」。

 連続する事例をどこで白黒つけるのかは難しい。だが少なくとも「黒」を「黒」ということだけはできるだろう。体罰やセクハラや言葉の暴力、反論の封殺などなど、悪を悪だと断じることは容易である。でもどこから体罰になるのか、どこから言葉の暴力になるのかが分らないから困っているのである。

 論者はその解決策としてこんなことを語る。「・・・あくまで『子どもの最善の利益』(子どもの権利条約3条)を考えなければならない。」。そしてこんな風に続ける。「・・・今日被害者救済が進展したきたことは喜ばしいことだ。しかし、子どもの主体性を尊重し、子ども自身がどこに問題あるか気づき、自省し、成長していく過程を支える指導も戒めるかのような言葉の使い方は、するべきではない。

 これは単に「・・・すべきでない」と主張するだけで、解決するための具体的手法を何ら示していないことになる。求められているのは、何をすべきなのか、どうすべきなのかだからである。

 そして彼の投稿はこのまま、こんな結論へと向かっていく。「・・・いじめという問題が起きれば、まず、子どもたち自身で抑制のしくみを考えていく。こうしたケースは、子どもの成長を支える指導のひとつだろう。もんだいへの対応方法を確立しているNPOもあるので、そのような団体に学んでもいい。」。彼は「指導という名の虐待」に対処する方法を、なんと「専門団体に学んでもいい」と言い募り、自ら提言することを放棄しているのである。

 そしてそのまま結論へとこんな風に流れ込む。「・・・子どもの尊厳を大切にした指導を共有し、いい教師を育てていくことこそ、遺族、被害者の思い、訴えを受けとめ直していくことだと考える。」。これが彼の結論であり大団円なのである。彼の論術は、ここで終わるのである。

 そんなことくらい言われなくたって分っていることである。これでは「世界平和は、平和を大切にする人を増やすことだ」と言うのと、同じくらい無意味な主張になっているのである。彼の意見は、単なるトートロギーでしかないのである。彼の主張する具体策は、「専門のNPOが答を知っているから、そこに学べ」だけなのである。

 彼はそのNPOのことをどこまで知っているのだろうか。そして本当にそこに答があることを理解しているのだろうか。そしてそこからどんな具体策が考えられるのかを提言することは、そのNPOの著作権を侵害することになるから、この新聞投稿に書くことはできないのだと思っているのだろうか。

 もし何らかの制限があって、具体的な提言を書くことができないのであれば、そのことを明確に示すべきである。路者が答があることを確信しているのなら、その答を明示することをしないのはむしろ誤りである。いやいや、誤りを超えて卑怯であるとさえ言えるのではないだろうか。

 彼はここで、「指導死」という子どもたちにとってのまさに命を賭けた問題を提起しているのである。その解決につながるのなら、どんな小さな意見でも、そしてその意見が仮に何らかの制限で公開できないとするのなら、むしろこうした投稿をすべきではなかったのではないかとすら、そこまで私は思ったのである。


                                     2018.7.24        佐々木利夫


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指導死と虐待