最近の天声人語(朝日新聞の毎日のコラム)を読んで、気になることがあった。公器である新聞の意見と言ったところで、まさに表現の自由に裏打ちされた一つの表明なのだから、その意見が私の意見と違ったところでそれを非難することなどできないだろう。それを理解しつつ、それでもやっぱり「どこか変だ」と気になってしまったのである。今年の8月は、6日は広島、9日は長崎で世界で始めて原爆被害を経験してから73年年になる。今日の天声人語は、そのことに寄せたコラムである。

 「・・・昨年末(国連で)採択された核兵器禁止条約は、核を絶対悪に位置づける試みである。その運動に関わる川崎哲さんは近著で、『核兵器を持つことが《力のシンボル》から《恥のシンボル》に変わったのです』と述べる。条約を認めない日本政府への痛烈な皮肉でもあろう・・・」(朝日新聞、2018.8.6)。

 コラムがどんな意図でこの言葉を引用したのかは、必ずしも明らかではない。でもその言葉を核兵器禁止を正当化するための言葉として引用、もしくは社会が核兵器禁止を支持していることの補強として引用したのであれば、それは嘘である。

 こうした引用は、あたかも世界が核兵器禁止を望んでいるにもかかわらず、少数者だけが核兵器の維持を頑なに守っている、そんな見解なり印象を与えてしまうからである。世界の多数はまだ核を求めているのである。そして核の保有を認めているのである。

 核にどれほどの力があるのか、私には原爆投下に伴う広島長崎の被害から想像するしかない。そしてその力が、少なくとも拳銃を超え、機関銃を超え、大砲などをはるかに超えていることは分る。恐らく人類が発明した現在までの最強の武器であろうことくらいは分る。確かに核兵器は大量殺戮兵器である。ならば「大量殺戮」であることが核兵器反対の根拠になるのだろうか。

 人類がどんな方法で闘いのスタイルを進化させてきたのか、必ずしも私が理解できているわけではない。ただ素手から石を相手に投げつけることへ、そして道具を使う刀剣や弓などへ、更には銃や爆弾などの効率的大量殺戮的なものへと、武器はその性能を拡大させてきたのではないだろうか。

 現在では、核兵器以外にも大量殺戮の兵器は多数存在する。単なる銃から大砲へと進んだ兵器だけに限るものではない。テロリストが体に巻きつけて自爆に使う爆弾、車両に積んで車ごと建物に突っ込む爆弾、飛行機から投下して途中で多数の爆弾に分裂するクラスター爆弾などなど、無差別大量殺戮の手段は尽きることがない。

 なんならアメリカで起きた2001.9.11の事件を見るがいい。ハイジャックされた航空機が乗客を乗せたままニューヨークの世界貿易センタービルなど各地に、爆弾を積むことなく突っ込んだ事件である。

 それとも「大量殺戮」の大量とは、数千人という規模では足りないのだろうか。数万人をターゲットとする無差別殺戮、そんな兵器をだけを特別に大量殺戮兵器と呼び、数百人数千人規模を対象とした兵器は、たとえ無差別であっても兵器として許容する、これが核兵器禁止の目的なのだろうか。

 私は核兵器禁止という言葉を聞くたびに、「核兵器は禁止したいけれど、それ以外の兵器はどんな兵器であっても認める」という主張が裏側にあるように聞こえてならないのである。対人地雷やクラスター爆弾、生物兵器などの禁止条約とその批准などを知らないではない。それでもその背景には、「これはいいけど、これはダメ」との思いがあることに、どこか矛盾を感じるのである。

 そしてもう一つ、この引用された筆者の言う「核は恥のシンボルになった」との主張に見られるような見解を、世界は抱いていないということである。核には現実的そして具体的な力が存在するのである。力を発揮する背景には色々あるだろう。武力だけが力ではないという意見も、それなり理解できる。経済、政治、芸術、スポーツなどなど、国と国との争いも含めて、必ずしも武力だけが解決の手段ではないことくらい理解できる。

 でも手っ取り早く、武力は力として相手を支配できるのである。拳銃を突きつけられた私は、相手に逆らうことなど事実上できなくなるだろう。そんな力を、武力は内包しているのである。それは世界の各地で起きている紛争が如実に示している。

 確かに国連で核兵器禁止条約が、昨年採択された。国連という機能がどこまで強制力を持っているのか、私は疑問に思っているけれど、採択だけでは何の効果も発揮することはないことくらい、常識として分っている。採択に現実の承認効果を持たせるためには、採択した加盟国それぞれが自国に戻って「国として同意する」ことを、国会なりで決めなければならないのである。

 そして現実に国として条約承認した加盟国、つまり採択に賛成しこの条約を批准した国は、国連決議を採択した全122カ国のうち、僅か14カ国にしか過ぎないのである。もちろん核保有国であるアメリカ、ロシアなどは、こぞってこの決議の採択には加わらなかったのだし、採択した国も核保有国の様子見に終始し、そのほとんどが批准していないのである。

 それほど、核には力があるのである。北朝鮮を小国だと軽蔑したいのではない。ただ、経済力にも技術力にも乏しい国が、アメリカという巨大な国家に少なくとも対等と思われる態度で向き合えたのは、核開発の結果である。水爆まで保有していると豪語しているその実力の程は分らない。それでもアメリカを射程内に治めたと主張するミサイルの存在にアメリカは恐怖し、両国の代表が向き合ったのである。

 アメリカ大統領が、その成果はともかくとして、北朝鮮の30歳台と言われる若き代表と真正面から、そして対等に向き合ったことの背景には、北朝鮮が核爆弾を保有しアメリカを射程内に治めたという事実があったからである。それほどまでに核兵器は強力なのである。もしかしたら、私が核爆弾を保有しそれをアメリカまで届く弾道ミサイルに搭載するほどの能力を持てたなら、私もまたアメリカ大統領と直接交渉することができるのである。

 それほどの力を核兵器は持っているのである。だからこそ世界中の国が、そして国以外でもその集まりをテロリストと呼ぼうがマフィアや暴力団と呼ぼうが、世界を相手とするだけの力を持ちたいと願っているすべての組織が、力の背景として核の保有を望んでいるのである。

 そんな力を、どうして宣言だけで禁止できると思うのだろうか。宣言だけなら誰でもできるだろう。だがどこまで現実に廃棄する勇気があるだろうか。世界は「自国は核を持っても、他国の核保有は許さない」とする核保有国優先の思想を前提に成り立っている。それはそのまま、これ以上核保有国が増加することは核保有国の安全が脅かされる、そんな思いを前提とする考えである。

 だから核はかくも強大なのである。そして核保有国は一国だけではない。核保有国同志も、相手の核保有を牽制しつつ自国の安全を図ろうとしている。それはそのまま、相手の核兵器の増加に自国も同じように対応させることを意味している。だから核は増加しても減少することはないのである。こんなに大きな力を持っている核の力を、どうして手放すことなどできようか。

 それは、世界中の国が軍隊なり戦争のための軍事力を完全に放棄することを宣言することが不可能であるのと同様、まさに不可能を強いることなのである。それほど、核は力なのである。そしてそれは、核をしのぐ更に強大な兵器が開発されるまで続くのである。そして兵力を持つこと兵器を持つことは、単なる専制君主の抱く身勝手な思惑なのではない。国民そのものの意思なのである。国民の多数は軍事力はもとより、核を持つことも「恥」だとは決して思っていないのである。


                                     2018.8.11        佐々木利夫


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恥のシンボル