10年ほど前勤務先に強盗に入れられた従業員が、頭を殴られたうえ10万円を奪われて死亡したという事件があったそうである。その殺された従業員の母を取材した記者が、昨年の暮れに「窓」という特集欄に「握りしめた護の手 奪ったのは誰」と題する記事を朝刊に掲載した(2017.12.10朝日)。

 その記事は、こんな風な母の思いを載せて締めくくられていた。「息子の手の感触は、いまもはっきり覚えている。早く犯人の顔を見たい。そして直接聞きたい。大切な息子を、なぜ奪ったのか。」

 母の気持ちとして分らないではない。でもこれは取材した記者によって編集された記事である。その中に「・・・なぜ奪ったのか」と投げかける母の思いを、どうして結語として用いたのかがどこか引っかかってしまったのである。

 「なぜ奪ったか」は、犯人に対する質問ではないと思うからである。犯罪の動機も、犯行を辿る上で重要な要素であるとは思う。だがこの事件は、金銭を奪うために店舗に侵入し犯人がその店舗の従業員を殺害したものである。目的も、動機もはっきりしている事件である。

 恐らく母の思いは、「どうして殺されたのか」にあるのではではなく、殺されたのが「なぜ息子だったのか」にあるのではないかと思う。

 ともあれ私はこの事件については何も知らない。だから無責任な解釈になるかもしれないが、事件の背景ははっきりしているように思える。犯人と従業員が偶然出会ったしまったのか、はたまた最初から殺意を持って店舗へ侵入したのか、そこまではしらない。ただ、少なくとも殺意と金銭強奪とが別々のレベルで考慮されていたとは考えづらい。

 つまり、「被害者が息子であること」が、予め予定されていたとは考えにくいのである。単に「金を奪う目的で店舗に侵入した」→「発見されたか、発見されそうになったので殺害した」だけのことではないかと思うのである。そこに殺された従業員の母が思うような、「息子が殺される動機」が金銭強奪に邪魔になったこと以外にあったとは思えないのである。

 だから「息子の殺害」は当初から特定されていたのではなく、言葉を代えて言うなら「だれでもよかった」のではないか、単に「誰」が特定されいてたのではなく、「たまたまそこにいたのが息子だった」、「邪魔になった者が息子だった」だけのことではなかったかと言うことである。

 ただ母という立場としては、「息子が殺されるに足る正当な理由」の存在を求めたくはなるだろう。ただ、その理由を求めることは「不可能を求めること」になるのではないだろうか。「殺されること」に正当な理由など、絶対に存在しないと思えるからである。殺されることは、例えそれが戦争であろうと交通事故であろうと、はたまた天災や寿命によるものであろうとも、「常に理不尽」だと思うからである。

 だからどんな説明がなされたとしても、「母にとって納得できるような、息子が殺害された真の理由」などは、そもそも答など始めから存在しないのではないかと思うのである。つまりは母の「どうして」に対する求めは、答えのない「ないものねだり」だと思うのである。

 だからと言って「母の願い」がどんなにないものねだりだったとしても、それを荒唐無稽で無意味な要求であるとは思わない。それは、発信者が母だからである。それは願いであることを超えて、祈りにまでなっていると思えるからである。

 にもかかわらず、この願いを掲げたのが新聞記者だったことに、私はどこか引っかかるものを感じたのである。それは母の願いそのものが「事実の追求」を求めるものではなく、どこまでも「情緒的」な訴えに過ぎないからである。そしてこの記事の取り上げかたが、事実と情緒の混同になっていると感じられたからである。

 母の思いは、実現不可能な夢想だとしても、思いは思いとして掲載することに異論はない。だがそうした夢想世界の出来事を、現実の事件の解決と母の願いの成就の双方に結びつけるように構成した記事の編集は、どこか作為的であり、一種の「やらせ」の分野にまで踏み込んでしまっているように思えたのである。母の願いが、どこかで泥まみれにされてしまったような、そんな気持ちがしたのである。


                                     2018.1.4       佐々木利夫


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犯人に聞きたい