2018.3.14、スティーヴン・ホーキング氏の訃報があった。私より2歳年下の76歳であった。筋萎縮性側策硬化症(いわゆるALS)で発話すらできない車椅子の物理学者である。彼の主張するブラックホールであるとかビックバンなどの理論は私にまるで理解できない分野だが、素人なりに興味があって彼の著作も何冊が持っている。そんな彼の訃報は、私が15歳のときに知らされたアインシュタインの死と同じくらいショックだった。

 彼の死を解説する新聞を読んでいて(2018.3.22、朝日)、その中に彼の学説を紹介するこんな一節があった。それは「・・・相対論と量子論という20世紀物理学の二本柱を駆使して、出発点に『神の一撃』を求めない宇宙史を示した」とする記述であった。

 これを読んでいて、宇宙の始まりについてホーキング以前には「神の一撃」論が考えられていたのだと思った。そしてやはり何らかの「人為を超えた意思の存在」みたいな理解がなされていたであろうことに、ある種の納得が感じられたのであった。

 生命の誕生については、様々な理屈が考えられている。だが、たとえその生命が結晶化と増殖という中途半端な機能を持つウイルスのような擬似的なかたちを持つにしろ、まだ人の力で作られたことはこれまでない。

 アミノ酸に似た物質が、隕石など地球外の情報から発見されたなどの話はある。しかし、いわゆる地球外生命が発見されたとの報告は一つも存在していない。地球外生命についての話題は様々に語られている。存在する可能性はあるとする話題のほうが圧倒的に多い。
 しかしながらそれとても、「存在する可能性」についての話だけであり、そして、いずれ「必ずや発見できると信じている」との希望的な説明が付加されるだけである。現実では、たとえ細菌やアミーバーのレベルにしろ、地球外に「生命」と呼ばれる存在は一つも確かめられていない。

 宇宙生命というと、どちらかというと地球人と会話や意思の交流ができるような生命体、つまり宇宙人を考えがちであるけれど、そこまで行かないまでも、せめて藻類や菌類に似た生物すらいまだ発見されていないのである。

 地球上の生命が、基本的には水素や窒素や炭素などのいわゆる原子周期律表に掲げられている物質の組み合わせから作られている、いわゆる「からだ」に宿っていることは、誰もが認める事実だろう。

 神が天と地を分けて「光あれ」と叫び、そして命が生まれたと聖書はいう(旧約聖書、創世記1章一節、同三節、二章七節)。それはそれなりに興味のある考えだと思う。ただ、このように万能の神を最初に設定してしまうと、その後のあらゆるできごとが神の手に委ねられてしまうという矛盾が生じてしまい、私の中で整理がつかなくなってしまう。

 つまり、なんでもかんでも神の仕業に基づくものだとする考えは、「ただ信じよ」だけの世界になってしまうということである。だからこうした考えは、理論とか理屈、思考や順序などと言った思考や更には進化とか適者生存などといった現象まで無視してしまう、という混乱を招くだけのことになってしまうような気がする。

 いくつかの異なった物質があり、それらが熱や圧力などで結合し分解し中和されていく、そうした過程はよく分る。どんな複雑な物質であっても、成分としては原子物質から構成されているという事実からするなら、生命もまた熱と圧力と電撃のようなショック、そして果てなく続く時間という経過の中から作られたという事実は疑いようがないように思う。

 だが、物質と生命とはどこかで区別されるものがあるように思えてならない。生命と物質とは、どこかで豁然と線引きされる相互に異質なものなのではないだろうか。物質の固まりが、それだけで生命になるものではないと思うからである。

 原始の地球を考えて様々な気体や液体を混合し、地球環境の変化を模して気圧の増減や高熱と酷寒の繰り返しを与え、そして空中放電などの諸条件を加味した環境にさらす実験を見たことがある。その結果、アミノ酸もしくはアミノ酸に類似した物質の生成が得られたとの話を聞いたことがある。つまり、有機物の発祥までは確認できたということであろう。

 だがその生成された有機物は、生命にまでは至らなかった。地球環境の激烈な変化は、様々なスープを作り上げ、それに様々な刺激を与えることまでは可能にした。だが私たちがいかにそれを模しても、実験ではそこまでであり、それ以上に生命への橋渡しをするだけの力は得られなかった。宇宙には地球環境よりも更に激烈な環境もあるだろうし、もしかしたら地球環境よりも更に温暖な環境だって存在するだろう。

 にもかかわらず、少なくとも私たちはこれまでの知識の総動員の過程で、生命を見つけ出すことはできないでいるのである。もちろん地球型生命だけが生命ではないのかもしれない。生命とは何かという問いそのものが、私たちには理解できないでいるとも言える。物質を前提としない生物だって存在するかもしれない。また、夜空に輝く月そのものが生命だと定義づけることだって可能かもしれない。太陽も、銀河も、もしかしたら宇宙と呼ばれる広大無辺な空域そのものだって、ある種の生命だと考えることすらできるかもしれない。

 私たちは、生命とは何かの定義をつけられないまま、地球という環境と時間に閉じ込められているのかもしれない。それでも私たちは「地球型生命体」という考えだけは、少なくとも理解できるまでになっているように思う。
 その、地球型生命とは地球だけに限定された、特別で例外的でオリジナルな存在なのだろうか。私たちが月や火星や小惑星群などに求めている生命や生命の痕跡は、ないものねだりをしているだけのことなのだろうか。

 数多くのスープを作り、どんなに手を加えても、そこから生命が出てくることはなかった。でも現実に、地球に生命は存在している。化学物質たるスープから派生した生命が、現に存在しているのである。どこかの過程で、ある種のスープから生命が発祥したのは事実である。つまり、何かの一撃が、スープに命を与えたということであろう。

 その一撃を「神の意思」と呼ぶことは可能であろうか。神の作った、「命」と呼ぶ物質外の何か、それは作るとか作られるというものではなく、「存在するもの」として神の手で付加された物質以外の因子と考えてもいいのだろうか。だとするなら、「命」とは単なる宇宙の気まぐれであり、人間とて気まぐれに作られた一つの形態にしか過ぎないのかもしれない。私たちはそれを勝手に生命と呼んでいるだけなのかもしれない。それをあたかも「神の一撃」などと名づけてしまうのは、余りにも安易な考え方になってしまうのだろうか。


                                     2018.3.23        佐々木利夫


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命とスープと一撃と