数日前の新聞で、「ハインリッヒの法則」と称する言葉を見つけた。朝日新聞社説余滴に書かれた、「原発とハインリッヒの法則」と題する記事であった(2018.5.4、著者は科学社説担当記者)。

 文字から見て、いかにも権威のありそうな名称である。それにもかかわらず、私はこの「ハインリッヒの法則」なる言葉から、内容どころかイメージさえも浮かばなかったことにいささかの興味が湧いて、記事を読んでみることにした。

 記事に書かれたこの法則の紹介は、簡単なものであった。福島原発事故のせいもあって、全国のほとんどの原発は現在休止状態にある。記事は、その休止中の原発の維持管理で小さな事故が多発していることを取り上げ、「・・・いずれも深刻なものではなかったが、『ハインリッヒの法則』を思うと不安になる。一つの重大事故の背後には29件の軽微な事故と300件の異状がある・・・」とするものであった。

 私はこの法則が発表されたであろう論文なり公開された経緯なりをまったくしらない。だから、どんな根拠やどんな経過でこうした結論に至ったのかもまるでしらない。ただ「法則」という名称をつけられていることから、例えば数学や物理学における法則のようなものを想像したのである。

 「三角形の内角の和は180度である」とする定理がある。定理と法則の違いがどこにあるかと問われても、私にはその違いを必ずしもきちんと答えられない。それでも少なくとも「○○の法則」というからには、そうした事実が何らかの形で立証され公認されたのだと私は理解したのである。

 その法則の論理を、仮に自分の能力ではきちんと理解できずとも、アインシュタインの掲げた「E=MC^2」のように、ある種の限定された状況下であるにしろ、揺るぎない事実として示された法則なのだと思ったのである。

 ハインリッヒの法則は、前提として「一つの重大事故」を掲げる。だが、その重大性は誰が、どこでどのように判断するのか、そのことがまず疑問となった。私が車を運転していて、交差点で他の車にぶつけてその車の乗客に怪我をさせてしまった、もしくは殺してしまったとする。これは果たして重大事故なのか、それとも怪我だけなら重大ではないのか、更に言うなら一人の死くらいなら重大とは言わないのか・・・。

 「重大」に対する疑念は、更に下位概念へと続く。原発で例えば水漏れ事故があったとする。これは29の範疇に含まれる軽微な事故に該当するのか、それとも300件の範囲に該当する異常の範囲内なのか。それとも無視していいほどの、異常とも言えない程度の単なる日常茶飯事として済ましてしまってもいいことなのか。29のレベルと300のレベルとはどこで区別するのか。

 恐らく「ハインリッヒの法則」と言われているのだから、それぞれ「重大」とは何か、「軽微」の基準はどこにあるのか、「異常」の範囲と無視していい範囲の区別などについて、きちんと説明がなされているのだろう。そんな内容も知らないままに、私がここでこの法則をどうこう言ったところで何の説得力もないことははっきりしている。

 それにもかかわらず、私はこの法則にどこか違和感を覚えてならないのである。原発の炉心近くに蝿が飛んでいた。これは原発作業員である私の上着に止まった蝿がたまたま運ばれただけのことだろうと判断して、無視していいのだろうか。それとも原子炉と外部との密閉がどこかで破綻している恐れがあるとして、29に含まれる軽微な事故と判定すべきものなのだろうか。

 そんなこんなの判定のつかない多くの事実の存在を思うとき、私はこの法則の信頼性が揺らぐのである。現場を歩いていて私が何かにつまづいたとする。つまづきの原因は、色々あるだろう。私の脳貧血、通路の小石の放置、部品を跨ぐタイミングがずれたという単なる私の不注意などなど、多様な原因が考えられる。私の腹が痛くて、それが原因で例えば計測メーターの目盛りを読み違えるかもしれない。または目盛りの観測そのものを失念してしまうかもしれない。そうしたとき、私の腹痛は事故なのか無関係として無視していい事象なのか、それとも事故の遠因として300の異常の一つに含めるべきものなのか。

 そしてそして私は更に、29と300という数値そのものにも違和感を覚えたのである。もちろん、29と300という事象の数値が、きちんと立証されているのかもしれない。だが、29という数字は一体どこから出てくるのだろうか、あらゆる事故に29という数値が必然として関与しているのだろうか。

 異常が20しか見つからなかったとしたら、残り9は必ず存在しているのだからそれを徹底的に探しだして検証の俎上に加えるべきなのだろうか。もし、35の事象が見つかったとしたら、見つけたとする判定そのものが甘いのであり、29を超えた6つは300の範疇に入れて検証すべきものなのだろうか。それとも選定過程を見直す必要があるのだろうか、それとも「29」と定めた定義そのものを見直すべきなのだろうか。

 同様なことは300についても言えるだろう。どんな場合にも300の要因が存在するのなら、300に足りない検証結果は不十分で不満足なものということになるのだろうか。つまり、300の異常の存在は法則として決まっているのだから、300を見つけ出すまで異常事項を発掘しなければならないことになる。なぜなら、足りないという事実は、一つの重大事故の背景が怠慢によってきちんと調査できていないことを意味しているからである。

 また仮に、300を超えた異状が見つかったとしたら、それはまた逆の意味で調査の怠慢である。300しかないはずなのだから、それ以上の発見は異状とも言えないような無視すべきものまで拾い上げてしまっている杜撰な検証であることを意味しているからである。それはもしかしたら、肝心な300に含まれるべき事象を見逃していることになっているかもしれないのである。

 これは屁理屈かもしれない。一つの事故の背景には、恐らく軽重様々な多くの前兆があるはずであるということをこの法則は言いたかったのかもしれない。そしてその軽重を29と300という単なる例示の数値として示したに過ぎないのかもしれない。だから、重大事故などと言わなくとも、例えば日常における些細な事故であっても、検証していくとそれに至る小さな背景がいくつもあるということを言いたいのかもしれない。

 ただ私は、そんな「どんな事故にもいくつかの前兆がある」と言いたいだけのために、わざわざ「ハインリッヒの法則」などと、いかにも数学的にも学問的にも証明されたような言い方をしていること違和感を覚えたのである。つまりは、瑣末なことかもしれないけれど、私のへそ曲がりのアンテナにこの「法則」という言葉がどこか引っかかっただけのことである。


                                     2018.5.11        佐々木利夫


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ハインリッヒの法則