引きこもりと依存症とは、理論的にも症状的にも別異なものであろう。それは学者や専門家の判断を待つまでもなく、私たち素人にもその違いが目に見えるように思う。引きこもりは一般的に、「未成年の男子が両親の保護の下で自室から一歩も外へ出ない」状況が浮かぶし、一方依存症はその枕に例えば「アルコール」、「パチンコ」、「覚せい剤」などの名称がつけられるように、物なりサービスへの偏った嗜癖が病的に見られる状況を指すと思われるからである。

 だが少し考えてみると、引きこもりと言ったところで、「引きこもること」だけにある人の行動なり日常が限定されているわけではない。共通的な特徴として「自室への引きこもり」があるけれど、引きこもりだけでその他には何も行動しない状況があるわけではないだろう。

 例えば、「テレビばかり見ている」とか「ゲームに熱中している」、さらには「インターネットやSNSなどにはまっている」など、何らかの特定された行為への集中がある。つまり、単なる無為徒食みたいな状態だけで成立していることなどないのではないかということである。

 そしてその集中の程度がこだわりの範囲を超えて、「一種の閉鎖された空間における依存」の状態にまで達していることが多いのではないだろうか。つまり、引きこもりと依存とは、少なくとも「かなりの程度相互に関連し合っている、共通している」と言えるのではないかということである。

 引きこもりは、どちらかと言うと若者、それも未成年の男性の状態を指すイメージが強いように思うけれど、つい最近厚労省は年長者・高齢者の引きこもりの現状を調査するとの話をしていたことを思い出した。また、数日前の新聞には、「ひきこもり 既婚女性にも」と題する記事が掲載されていた(2018.5.25、朝日新聞)。そうすると引きこもり状態というのは、男女や年齢を問わない、かなり広範な社会問題にまでなっているのかも知れない。

 ところで、前述した既婚女性の引きこもりを取り上げた新聞記事は、内閣府が2015年に「ひきこもり」の定義として、「社会的参加を回避し半年以上家庭にとどまり続けている」ことを掲げたと書いていた。そして15歳〜39歳を対象に調査したところ、全国で約54万人がそうした状態にあると推計したそうである。

 ただ、この調査には対象に主婦や家事手伝いが含まれていない(当初から対象外)こと、対象年齢が限定されていて女性の実態をつかみきれていないなどの批判があるようである。

 ともあれ引きこもりは、いわゆる「未成年男子」のような限定された階層だけの問題ではないことだけは分ってくる。そして前掲した総務省の掲げた引きこもりの定義を見て、もしかしたら私も引きこもりに含まれるのではないか、とふと感じたのである。

 「社会的参加回避、半年以上」で、「家庭にとどまり続けている」のが引きこもりだとするなら、私はまさにこの基準に当てはまるように思えたのである。

 「社会的参加」とは何かについて、この記事は一言も触れてはいない。だが、その言葉から推察するに「社会」とは集団的他者を指し、「参加」とは少なくとも「そうした集団と接触していること」を意味しているように思える。ただ他者集団とは言っても、それほど広範囲な集団を意味しているのではないかもしれない。

 単に町内会の運動会、週一回のディサービス、病院での集団リハビリなどへの参加も、「社会参加」になるのかもしれない。場合によっては単なる「他人との会話」だけでも、その他人が複数存在するなら、大げさかもしれないが一種の「社会的参加」と呼んでいいのかもしれない。

 仮に、そこまで「社会」の範囲を小さくしたとしても、例えば百均ショップで「こんな商品の置いてある売り場はどの辺ですが」などと店員に聞くような行為にまで、「他者との会話」、そして「社会的参加」と言えるかどうかは疑問である。バスに乗って、「この停留所に止まりますが」と運転手に聞くことにまで、「社会参加」に含めることができるかは疑問だということである。

 また、私は自宅の外に「税理士事務所」と称する賃貸マンションの一室を利用している。そして毎日のように朝8時頃に家を出て、夕方5時過ぎまでをそこで過ごしている。税理事務所の看板を掲げてはいるものの、それだけで顧客が来てくれるわけではない。また仮に仕事の依頼があったところで、複雑で毎年のように改正される税制への対応にはそろそろ限界を感じており、簡単に引き受けることは心許なくなっている。

 時に日がな一日、テレビ、テレビゲーム、ピアノ仕様のキーボート、そしてこうしたエッセイの作成や発表にうつつを抜かし、それを秘密の基地での至福の時間だと自認していることも多い。そうした゚時間は、自宅以外で過ごしているという意味で、「家庭にとどまり続けている」こととは異なるのだろうか。事務所から一歩もでないことは、引きこもりの定義からは外れることになるのだろうか。

 年齢を重ねるにつれ仲間も少なくなり、仕事関連の総会や懇親会などの出席にも次第に足が遠のいてくる。自宅では妻と二人だけの時間、秘密の基地では自分だけの時間、そうした場面の積み重ねは、まさに総務省の言う「引きこもり」の定義に合致しているように思えてくる。

 引きこもり状態にあるのか、それともそうでないのかの判定について、「自らの意思による楽しみの判断」という基準がどの程度加味されるのだろうか。それともまったく加味されないものなのだろうか。それについて私はまったく無知である。ただ、「社会とのかかわり」という点をどう考えるかによって、引きこもりの判断が逆転するほどの違いが出てくるようにも思えてくる。

 例えばこうして私はエッセイと自称する雑文を、毎週毎週インターネットで発信し、その数は1300本を超えている。しかし、考えてみると、作成も孤独なら発表も孤独という一方通行である。一応は「全世界に向けた発信」なのだから、無限世界を相手とする「100パーセントの社会性あり」と考えることだって可能である。果たして、私は孤独な引きこもりなのだろうか、それとも世界を相手にした引きこもりとは無縁の他者との関わりに遊んでいることになるのだろうか。

 だが、世界に向けた発表とは言っても、それほど多くの人間から日々の反応があるわけではない。だから一面孤独で「社会性がない」とも言える。電話だって、ネット回線の変更の勧誘や、不要物品の回収業者からの案内、時折の世論調査の質問などを除くと「あぁ、今日は一日誰とも会話らしい会話はしなかったな」などと思う日だってある。

 改めて「引きこもり」の定義を見直しつつ、これもまた「程度の問題」という、いつもながらの私のジレンマの渦中にあるテーマなのかと思ってしまう。自宅では妻依存症、事務所ではエッセイ依存と読書依存、そんな私の日常に、誰が引きこもりの判定をするのだろうか。

 とは言いつつ、自宅と秘密の基地まがいの並存した今の状態を、私はこよなく楽しんでいる。「引きこもり」の人たちが、もし仮に「今の状態から抜け出したい」と思いつつそうした世界に閉じ込められているのだとするなら、私は決して引きこもりではないと断言できるだろう。・・・それとも、それとも、「引きこもりびと」もまた、その「引きこもり状態」を楽しんでいるのだとしたら・・・。


                                     2018.5.29        佐々木利夫


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引きこもりと依存症