「良い書き手 育てたい」と題する、高校の先生の投稿を読んだ。「花まる先生・公開授業」という新聞の定期的な特集に取り上げられた記事である(朝日新聞、2018.3.4、男性教諭、40歳)。その記事に気になるフレーズがあったので取り上げてみた。

 話は少し変わるが、この頃の私のエッセイのテーマは、なんとなく新聞記事が発端になる場合が多いように思う。高齢になってきて少しずつ友人・知人などとの交流が少なくなり、相対的に新聞との対話が増えてきているからなのかもしれない。それを承知で、今日のこの話題である。閑話休題。本題に戻ろう。

 気になったのは「・・・先生は言った。『一番必要な時に必要なことを助言する。教師はそれでいい』」とする部分であった。言ってる言葉に何の矛盾もない。むしろ、過保護にならない程度の助言なら、望ましいとさえ言えるだろう。

 にもかかわらず、私はこの言葉が記事の末尾になってしまっていることに、どこか違和感を覚えたのである。つまり、この言葉が投稿者の思いの結論として書かれていることに、「それは違うだろう」、「それでは答えになっていないだろう」と感じてしまったからである。

 それは、「必要な時」、「必要な助言」、それがどんな時でどんな助言なのかを、投稿者が何にも示唆していないことにあった。「必要な時」に「必要な助言をする」、言葉の意味としては十分である。何一つ不足していることはない。私が「必要としているその時に」、まさに私が「必要としている的確な助言をしてもらえる」のだとするなら、これほど頼りになる答えはない。

 ただ、そんなことくらい誰にだって言えるし思ったのである。「あなたが必要な時に、必要な答を与えます」、これほど適切な回答はないだろう。しかし私が欲しかったのはそんな言葉ではない。欲しいのは、「どうしたらいいか」という迷いに対する適切な答えだったのだから・・・。

 だが投稿者の示した言葉は、一種の宣言や宣伝であって答ではない。考えてみると、どんな時も、その「私が必要としている時」を理解してくれる者など、これまでいなかったのではないだろうか。困難や迷いや危険を回避し解決できる「必要な助言」を的確に与えてくれることなど、これまでありえただろうか。それがどんなに切実で切羽詰った「必要」であったとしても・・・である。

 つまり私が言いたいのは、「一番必要な時に必要なことを助言する」は答なのではなくて、入口にしか過ぎないということである。「必要な時」をどのように捕まえ、「必要なこと」をどのように与えるかこそが、求められている答なのだということである。だから、こうした宣言を投稿の末尾に掲げたところで、何の意味もないだろうということなのである。

 もちろん投稿記事は一般論を掲げたものだろう。様々な人にそれぞれ異なった「必要な時」が存在し、また「必要な答え」も様々だろう。だから一般論としての投稿に、「必要とされることども」を具体的に列挙することなどできないだろうことは分る。

 それでも、例示を掲げることであるとか、「必要な時」を捉えるための回答者の準備状況、「必要な答え」を得るためのヒントや配慮など、回答者が常日頃心がけておくべき様々を伝えることはできたのではないかと思う。そしてそれらのいくつかを例示することで「必要な時」に「必要なこと」を助言できる態勢がどんなものかを、答を必要としている者にも理解できるように示すべきだと思うのである。

 「必要な時」に「必要な助言を与えます」だけの宣言だけで、教師の役割が果たせるわけではない。困難に直面している生徒の必要な時を的確に把握し、そしてその困難を解決できるような「必要な答」を用意できて助言すること、それこそが「答」なのではないだろうか。

 そしてふとそうした思いには、嘘があるのではないかと思ったのである。「必要な時」に「必要なこと」を与えることが教師の役目だと、教師自身が思ったところでそれはそれでいい。だが、それはないものねだりではないたろうかとも思ったのである。できない約束をすることは、あたかも「私は神様です」を宣言するみたいな、自身を万能とする教師の自己満足、自己肯定、自惚れ、錯覚にしか過ぎないのではないかと思ったのである。

 もう一度投稿者の掲げた言葉を振り返ってみよう。「・・・先生は言った。『一番必要な時に必要なことを助言する。教師はそれでいい』」。

 「それでいい」という語は、恐らく謙遜もしくは控え目な感情を示しているのだろう。出しゃばらず、控え目に生徒に寄り添って適切な回答を与える、それが教師の役目だ、そんな気持ちを表しているのではないだろうか。

 そんなところにも、私は教師という地位にいる者の一種の不遜な思いを感じてしまう。その教師はきっとこう思っているに違いない。「私は常にあなたが必要としている時を感じています」。そして「私は常にあなたが必要とする答を持っています」。けれども「私は決して出しゃばることはしません。控え目にあなたを優しく見守っています」。だから「私がたとえ積極的にあなたに話しかけなくても、いつでも安心して相談してください」。

 しかし、そんなことが果たして現実にありうるのだろうか。「必要な時」とは誰にとっての「必要な時」なのだろうか。「必要に時」について、教師と相手でその程度が違うとき、どこで折り合いをつけたらいいのだろうか。「必要な答」とは、教師が理解している「答」だけでいいのだろうか。それとも相手が真に必要としている答なのだろうか。そこに齟齬はないのだろうか。食い違いがあったとしたら、それはどのように解決していけばいいのだろか。

 そんな重宝な教師が現実にいるのだろうか。教師だからこそ可能なのだろうか。もしそうなら、私は教師という存在を、考え直さなければならない。本当に教師にそこまでの力があるのだろうか。

 もしあるのだとするなら、私は教師を神格化してもいい。だがそんな力などないくせに、こんな無責任な発言をしているのだとするなら、それは単なる教師の思い込みである。単なる思い上がりであり、錯覚である。そしてもしかしたらそうした不遜な思いは、逆に生徒に危害とも言えるような計り知れない影響を与えてしまうのではないだろうか。


                                     2018.4.5        佐々木利夫


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