科学が好きだと言ったところで、私の持っている程度の知識は俗説の塊りであり、およそ科学とは無縁の凡庸そのものである。だから、これから書こうとすることも単なる年寄りの独断であり、同時に偏見であるかもしれない。

 いつ頃学んだのかすっかり忘れてしまっているけれど、「質量保存の法則」という理屈を、私は今でも金科玉条のように信じている。物質は形を変えることがあっても質量全体としては不変であるとする理論である。

 石炭も灯油も燃え、燃えてなくなってしまう。燃えるとは空気中の酸素と結合することであり、その結果例えば石炭は燃えて熱を放ち、そして灰が残り空中に二酸化炭素を放出してその機能を失う。だが「石炭」+「酸素」という最初の物質の質量は、残った「灰」+「二酸化炭素」+「発生した暖かさや光などのエネルギー」などの総量と変わらないということである。

 それは食物であっても、ロケットの飛行でも変わらないのが「質量保存の法則」である。この法則は地球規模のみならず、この宇宙に不変的に成立する理論であると言われている。

 そんなときに、ふと放射能の安全基準の話題が気になったのである。福島で原発事故が起きたのは2011年の3月11日で、東北太平洋沖地震と同時だった。だから、その時から間もなく7年になろうとしている。事故の記憶が国民の中で風化しているとの声がある一方で、復興はまだまだ道半ばだとの声も大きい。

 最近になって、放射能に汚染されて居住が禁止された地域も徐々にその制限が緩和され、かつての住民が地元へと戻ってくるようになってきている。ところで「居住禁止の制限が緩和された」とは、測定された放射能の値が徐々に低くなってきていることが原因である。つまり、放射能による健康被害の恐れがなくなったので、居住できるようになったと国が判定したことを意味する。その基準を必ずしも数字としてきちんと理解しているわけではない。つまるところは、放射能値が10ミリシーベルトなら健康に影響があるが、3ミリシーベルトまで下がったので健康被害の恐れがなくなったということなのであろう。

 放射能が減ったのである。10が5になり、5が3に下がったのである。下がったとは、その分だけその地域から放射能が消えたということである。でも減ったとはどういうことなのだろうか。半減期という言葉を知らないではない。放射能の種類や放射能を出す物質によってその期間は異なるようだが、放出する放射能の力が半分になる期間のことである。その期間は僅か数秒という短時間から数十万年とも言われるような長期のものまであり、一口に半減期と言っても一筋縄ではいかないようだ。それでも人体に影響のなくなるまでの期間を、半減期という考えで判断しようとしていることは分る。

 そこで思うのである。半減期の意味は分かった。でも半減したとされるその半分は、一体どこへいってしまったのだろう。半分の半分になったとき、減った四分の三の放射能はどこへいってしまったのだろう。単純に考えると、空中へ放出されて消えてしまったと考えるのが一番妥当する。無くなってしまったのである。それを雲散霧消と呼んでいいかどうかはともかくとして、この地上から消えてしまったと考えることは可能である。

 でもそこんところに「チョット待って」と、私は思ったのである。見かけ上消えてしまう現象は、私たちの日常生活の多くの場面で経験できる。火にかけたやかんの水は、沸騰するとやがて消えてしまうし、大雨の洪水も数日を経ずして住宅の周りから消えていく。パンは食べてしまうと目の前からなくなるし、ガスストーブの火もスイッチを切れば消えて部屋の中は寒くなる。人だって死んでしまうと、火葬にしろ土葬にしろ、やがて灰になり塵となって消えていく。

 何ならトイレの糞尿や毎日発生する家庭ごみを考えてもいい。私たちの回りで目の前からある物質が消えてしまうという現象は、枚挙に暇のないほどたくさん見かけることができる。

 「栄枯盛衰この世の習い」とばかりに、私たちは時間の経過で物事が消えてしまう現象を、どちらかというと当たり前のこととして理解してきた。だが、ここに「エネルギー保存の法則」、「質量保存の法則」を当てはめてみると、そうした考えは一変してしまうことが分る。消えてしまうものなど世の中には一つとしてないことが、当たり前に理解できるようになるからである。

 ゴミは消えてしまうのではない。誰かが見えないところへ運び、そこで焼却しているか埋めたてしているのである。決してマジシャンが特別な技術で消してしまっているのではないのである。やかんの水も大雨洪水も、水蒸気として形態を変えたか海へと流れて行ったかはともかく、消えてしまったのではないのである。

 放射能もエネルギーの一種であることは、その影響がレントゲン写真として利用されることや、被曝としての症状として表れるかなどにより明らかに分る。そしてエネルギーは、アインシュタインがいみじくも余りにも著名な方程式E=MC**2(**はべき乗、つまり二乗の意味)で簡潔に示したように、質量とイコールで結ばれるものなのである。

 原爆は質量の一部を減少させることで、その減少分をエネルギー(熱や風などの爆発力、そして放射能など)に変換させて周りを破壊する兵器なのである。質量の一部を望むと望まざるとにかかわらず、放射能というエネルギーに変換して放出させてしまうのが核爆弾なのである。

 福島の原発事故の後遺症として近隣地域を汚染した放射能は、事故後7年を経て消えてしまったのではない。居住できるまでに下がったといわれる放射能は、消えてしまったのではなくそのままどこかに保存されているのである。「ここ」からは消えてしまったのかもしれない。だが放射能「ここ以外」の「どこか」へ移動しただけなのである。そしてそれこそが質量保存の法則でありエネルギー保存の法則なのである。

 そんなことくらい、誰もが知っている当たり前のことかもしれない。それにもかかわらず多くの人が、中でも放射能が市民や国民に重大な影響を与えることに影響力を持っている人たちが、そのことに対して知らん振りを続けている。国や自治体や学者なども含めて、責任ある者があたかも「消えること」を前提として、保存則にはまるで頬被りしているように見えるのは、一体どうしたことなのだろうか。

 核の持つ強大な破壊力は、攻撃力、抑止力として今でも世界を席巻している。核保有国は抑止力を強調し、持たざる国は保有国の傘下に入るか、新たに保持することで保有国と肩を並べる力を持とうとしている。そしてそのために世界中が核実験を繰り返し、放射能は野放しで拡散していく。そしてその延長に原子力発電や原子力潜水艦の存在がある。

 地球はあらゆる汚染を飲み込んで浄化する機能を持っているのだろうか。浄化と言えどもエネルギー保存の法則から外れることはできない。放射能が消えることは決してないのである。そもそも消せないのである。酸とアルカリを混ぜ合わせて水と塩になるようなそんな無害化の方法すら、私たちは見つけられないでいる。そのことを、私たちはきちんと理解しなければならないと思うのである。

 福島県浪江町、飯館村に発令された原発事故による放射能からの避難指示は解除された。だが身体に影響がなくなるまでに減ったとされる放射能は消えたのではない。浪江町の隣の町へ、飯館村の隣の隣の村へ、そして更にはその隣の市町村へと、ただ移っていっただけにしか過ぎないのである。


                                     2018.1.12        佐々木利夫


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放射能の拡散