憲法改正論議が国会でかまびすしい。憲法審査会で様々な議論がなされ、与野党でのかけひきもあって論議を呼んでいる。今のところ条文の提案まではなされておらず、国民投票法の改正を巡るものである。何しろ、憲法改正には国会議員の三分の二による発議に加えて、国民投票による過半数の承認が必要とされているからである(憲法96条)。

 その国民投票に当たり、事前の広報はどこまで許されるのか、戸別訪問による投票依頼は許されるのか、投票者の年齢制限をどうするのかなどなど、国会議員の選挙などとは違ったシステムが求められ、それがこの投票法の問題になっている。

 私は個人的には「改正の必要などない」という立場にある。だから結果的には憲法改正反対の立場にあると言ってもいいだろう。戦後70数年を経て、憲法にもそろそろガタがきているのではないかという意見が分らないではない。インターネット時代にそぐわない規定もあるなど、見直すべきではないかとの意見もそれなり理屈はあると思っている。

 ただ私が改正に反対する理由は、自民党による憲法改正の思惑が、時代の変化に伴う経年劣化の補正という意味を超えて、日本が軍備を持てるような方向へと動いているように思えてならないからである。

 まさかに徴兵制度の復活までを目論んでいるのではないかとまで、思っているわけではない。だが兵役という名目を外し、例えば若者を対象とした日本の現状を考えるための教育訓練などの名目で数日間義務的に実施するなど、なし崩しに徴兵的な方向へと進んでいくようなことも考えられるからである。

 それ以上に現在、現行憲法規定が障害となって私たちの生活に不便を与えているようなことがないではないか、と言うことである。前にも書いたことがあるが、例えば憲法は義務教育は無償と規定し(26条2項)、義務教育は小学校中学校の9年間に限られている(教育基本法4条)。それを例えば幼稚園なり大学にまで無償を拡大することを考える。確かにそうすることは憲法に違反する。幼稚園や大学は義務教育ではないからである。

 でも、そのことを理由に憲法違反としての訴訟が提起され、最高裁まで含む司法制度がこぞって憲法違反を理由に幼稚園大学の無償制度を取り消すようになるとは思えないのである。つまり、憲法違反の主張は、国民を拘束し不便さを与える方向にのみ起こされるのではないかということである。それはそのまま、現状での憲法で何の不便もないということを意味している。

 自民党の主張する憲法改正と自衛隊の関係について、最近こんな投稿が新聞になされた。それを読んで、彼は憲法改正に反対なのだということは理解できた。だが、書いてあることは憲法改正反対の理屈になっていないのではないかと思ったのである。こんな意見である。

 「『自衛隊違憲論』理由の改憲に疑問」、「自民党は9条改正にこだわる。理由は『自衛隊は必要なのに、多くの憲法学者が自衛隊は違憲だと言っているから』。なるほどわかりやすい。しかし、いくつか疑問は残る。まず、自衛隊を合憲だとしてきた従来の政府見解はどうするのか。・・・『憲法学者が意見とするから』(なら)・・・なぜ憲法学者に・・・『どうすれば合憲になるか』・・・問えばよいではないか。・・・首相は、国会で『・・・改正しようが改正しまいが、自衛隊は合憲である』と答弁した(ことと矛盾する)」(2018.7.4、朝日新聞、埼玉県 大学生20歳男)。

 彼は@従来からの政府見解、A憲法学者の賛同、B首相の答弁、の三点を掲げて改憲に異を唱える。私が改憲に反対であることは前に述べた。それでもなお、この大学生の意見が改憲反対の論拠には、どうしてもなり得ていないように思えてならないのである。むしろこの三点の問題提起は、そのまま改憲賛成論議の根拠になっているようにすら思えるのである。

 言ってみるなら自民党の言い分としては、「だからこそ憲法を改正する必要があるのだ」という主張につながるのではないかということである。政府も自民党も、従来から「自衛隊は憲法に違反しない」と主張してきた。それは、憲法に自衛隊の存在を認める根拠規定があるからではない。

 憲法に自衛隊の存在を認める規定はないことは事実である。しかしながらこれまでの政府の見解は、「国防」というのは国の存立のためには必須の要件であり、たとえ憲法が戦争放棄と戦力の不保持を宣言したとしても、専守防衛たる国防の組織まで放棄したものではないとするところにある。

 つまり、自衛隊の存在を認める規定はないとしても、憲法以前の問題として国防のための組織は、国というそしきの下では当然に認められているという立場である。

 これに対して、憲法が戦力不保持を宣言している以上、戦力を有している自衛隊は、考えるまでもなく憲法違反となるとする主張があり、この両者の対立が憲法改正是非の根拠になっている。これはまさしく、憲法に「自衛隊(その名称はともかく)」という組織の存立を規定した条文がないことに起因している。だからこそ、政府はこうした規定を憲法に書き込みたいのである。そうすれば、憲法に違反するとかしないなどという論議は、一挙に消滅してしまうからである。

 電気窃盗の罪を知ったときのことを思い出す。電気窃盗とは、電線から許可なく電気を自宅へ引いて利用することをいう。刑法は当初、「他人の財物を窃取した者は、窃盗の罪とし、・・・」(235条)とするだけであった。盗電がこの条文に該当するかが裁判で問題となった。電気は単なるエネルギーであって、家財や電気製品などのいわゆる形ある「物」、つまり「財物」とは異なるのではないかとの主張がなされたからである。

 これは刑法が創設時(明治40年)には「電気」の窃盗を予定していなかったことに原因があるのかもしれない。見かけ上、電気と財物とはイコールで結び付けられるほど類似しているわけではない。電気窃盗は常識的には窃盗になると思われるほど反道徳的な行為ではあるれど、罪刑法定主義の下では疑問となったのである。それで刑法は「・・・電気は、財物とみなす」との規定を置いてこの問題を解決したのである(245条)。これで電気は財物かを巡るもめごとはなくなった。それは刑法に、電気を財物とする条文を加えたからである。

 憲法でも同じである。解釈論だけでは、多数の反対論を抑えることができないのである。なにしろ「書いていない」のだから、自由に解釈し、主張することはそれぞれの国民の、まさに自由だからである。だから、自衛隊を憲法に適合していると主張したい者にとっては、憲法に自衛隊の存在を条文として書き込むことが、何にも増して一番の紛争の解決になるのである。

 それは、違憲の存在を合憲とさせるための手段ではなく、従来から解釈として合憲であった自衛隊を、名実共に合憲とするための手段なのである。そうすることによって、これまで違憲の立場にいた政党や学者や国民から、「違憲だ」という主張を意味のないものにできるのである。電気を財物とする規定を刑法に追加したように、憲法に自衛隊を書き込むことでこれまで長く論争の的になっていた合憲違憲の対立を、一挙に解消することができるとする思いがあるのである。

 そしてそうした思いは、「だから国民に憲法改正の是非について信を問おうとしているのです」との論拠へと展開していくのである。そうした理論に、私たちは流されないようにしなければならないと思うのである。アメリカの統治下の憲法であるとか、経年劣化しているなどの理屈に惑わされことなく、憲法の持つ姿をきちんと見ていく必要があるのである。

 この学生の投稿は、自衛隊が違憲であることの論拠には、少しもなっていない。「自衛隊は戦力である」、「戦力不保持は憲法の宣言するところである」、「したがって自衛隊は憲法に違反する」、こんな単純な理屈の方が、反対論としては整合性があるように思える。学生の見解は、どんなに議論を積み重ねでも、違憲の証明には結びつかないと思うのである。

 そして私は現行の9条を持った憲法が素晴らしいと思い、美しいと思い、だからこそ「このままでいい」と思うのである。そしてそして、それを思い続けることが将来行われるようになるかも知れない「国民投票」の判断にも、まっすぐにつながっていくと思っているのである。


                                     2018.7.14        佐々木利夫


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自衛隊の合憲違憲