「自己責任」、いい言葉だ。他人のせいにすることなく、自立し自律していることの証したる自己決定こそ、人間の尊厳であることを高らかに宣言する言葉である。そして自己責任こそが人である己の生きる道だと宣言することが、自由に生きる人としての究極の姿勢だとさえ思う。

 だから「自己決定」、「自己責任」という言葉の中には、理想としての人間本来の在り方みたいな思いさえ感じることができる。これこそが人間、ありうべき人間、これなくして人間足り得ない・・・、そんな雰囲気さえこの言葉は示しているように感じる。

 それにもかかわらずなお私は、この言葉の中に、時に胡散臭さ、時に「ちょっと待って」、時に「ほんとにそう思う?」などの、首を傾げるような思いを感じることがあるのである。

 それは、「自己責任」という言葉が、「自己決定の結果としての自己責任」の部分だけが、強調され過ぎているように思えてならないからである。自己責任という言葉に、「自己決定したことの責任」を余りにも過重に背負わせているような気がしてならないのである。

 それは自己決定の前提として、同程度に納得した自己理解が必須だと思うからである。分ったつもりでもなく、分った振りでもなく、きちんとした理解と納得が前提になってこそ始めて言えることなのではないかと思うからである。

 ところが現実世界では、どこまできちんと自己理解がなされているか、どこまで分った上でその提案なりを選択したのかが疑問なのである。

 そうした提示や承諾は、文書で交わされる場合も多い。文書がない場合には、つまるところ「言った」、「言わない」の問題に帰結してしまうからである。だとするなら、文書化することを法定化することで、多くの問題は解決するように思える。なぜなら、自己責任による責任負担は、多くの場合弱者に負わせらることが多いからである。弱い立場の者が、「納得して了解したのだから、その責任を負担せよ」と言われたとき、文書があれば反論ができるからである。

 力ある者が弱者に向かって、「そうした約束はしていない」と主張し、そうした相手方の主張に対して弱者が的確に反論できないような場面で、はじめてこの自己責任という足かせが弱者を拘束することになる。そうしたときに文書化の法定は、弱者にとって大きな力になるだろう。少なくとも「言った、言わない」の問題はなくなるからである。

 それでも、これだけで解決するものではない。こうした自己責任の問題は、例えば医者と患者、金融機関とローンの契約者、公共料金の取引当事者、建築業者と発注者などなど、余りにも力の違いが当事者間で違いすぎるような場面で発生することが多いからである。

 「俺の目を見ろ何にも言うな」、「黙って俺に任せておけ」、そういった暗黙の力が両者に働く場合も多々ある。文書による契約が、対等の立場でなされることくらいは知っている。だが、そもそもが対等になり得ない場面での契約もまた、現実にはありうるのであ、そこに自己責任という余りにも巨大な枠組みか干渉してくるのである。

 もちろん力関係の強い者と弱い者との間の契約だからといって、そのことだけで契約の効果を論じるのは間違いだろう。だが、現実には強いものが自己に有利な内容を弱者に押し付けるような場面なり書面の作成過程なりがないとは言えないからである。

 また、余りにも内容が詳細すぎて、一方が契約をきちんと理解できないまま承諾してしまうような場面もまたあるだろう。更には、同じ用語の使いかたについても、その解釈を巡って対立するような場面だってないとはいえない。もっと例を挙げるなら、実質的に強制力の働く契約もあることに気をつけなければならない。例えば運送約款を承諾しなければ列車やバスには乗れないことになるし、電気やガスや水道などの契約は、拒否すればその利用ができないことになるなどである。

 だから文書化すればすべて解決するとはいえない。やはりどこかで、「弱者を保護する」という意識を持った裁定人による自己決定以前における介入が必要となる。それが国なり地方の責務の一つでもあろう。

 そうした言い方は、私が日ごろ主張している「誰かが何とかしてくれる」という他者へのまるごと依存の風潮に対する批判とは矛盾するかもしれない。都合のいいときだけ「自立」を主張し、都合の悪いときは「依存」を認めよという身勝手な主張になるかもしれないからである。

 でも昨今の「なんでもかんでも自己責任」という風潮もまた、どこかおかしいように感じてしまう。弱者も含めた向こう三軒両隣の住民のすべてに対して、あらゆる契約を理解し、危険の察知に力を注ぎ、広報されたことはすべて理解している・・・、そんな前提をもとに自己責任を押し付けられることそのものに、私は疑問を抱いているのである。

 何でもかんでも自己責任と何でもかんでも面倒見て欲しいが、両立する観念だとは思わない。だが、その中間に私たちは生きているのではないかとも思うのである。「自己責任」は素晴らしい考え方だとは思う。しかしその反面、私たちが様々な職業を得て分業する社会を作り上げたということは、自己責任もまた互いに分散することができるという事実と裏腹なものなのではないだろうか。

 そうした意味で、最近の自己責任の取り上げ方には、正論を掲げた押し付け、力を背景とした無理強いが君臨しているように思えてならない。私たちは自己責任を分割し、共同体の中で消化する方式を、その絶対的な正邪はともかくとして選択してきたのではないだろうか。そしてそれを社会と呼んだのではないだろうか。

 特に最近は自己責任という言葉を、「強者の単なる責任逃れ」のために弱者に責任を転換する、そんな一方的な使われ方がされているように感じられてならない。自己責任とは、本来そうしたものではなかったのではないだろうか。むしろ自己責任は押し付けられるものではなく、責任が自己にあることを自ら承認するシステムだったのではなかったのかとすら思うのである。

 「危険は承知してました。それを理解した上で私はこの契約を結んだのです。だから、こういう結果を迎えても後悔はありません」、こう言わしめるほどの事前の説得、説明、丁寧な理解への道筋のあることが、自己責任を主張する当事者には必要とされているのではないか、私にはそう思えてならない。


                                     2018.2.26        佐々木利夫


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やっぱり気になる自己責任