世は上げて人工知能(AI)の時代になっている。新聞テレビでこの話題の出ない日はないと言えるくらいまで世間を賑わしている。わたしも50年以上も前からいわゆるマイコン・パソコンといわれる初歩的な計算機というかプログラムに興味を持っていたこともあって、今でも人工知能という呼び名にはそれなりの興味を持っている。

 とは言っても、私に人工知能とは何かについての知識はほとんどないし、また理解できるほどの能力を持っているわけでもない。かつて通産省が認定する、いわゆるコンピュータープログラマーの基礎的な知識を認定する、情報処理技術者試験に挑戦したことがある。しかし、かろうじて二級には届いたものの、一級やシステムエンジニア(SE)にはまるで及ばなかったのが現実であった。まあ、「パソコンに興味がある」に、いささか毛の生えた程度の知識でしかなかったということでもあろうか。

 それでも心のどこかで、人工知能の実現はいずれ可能であると思っていた。それは、基本的に人間は頭脳によって様々なことどもを処理しているのだと思っていたからである。そしてその頭脳が、「脳細胞」と言う一種の「物質」のかたまりからできているという事実がその背景にあった。

 つまり、脳細胞とは一種のメモリーであり、そのメモリーの集約と様々な組み合わせや連結などから、頭脳という組織というか能力が構成されていると考えていたからである。だから、そうした「物質で構成された頭脳」のアウトプットとして、芸術や文芸や科学などを含む、あらゆる思考や意志やひらめきなどといった人間らしい活動の様々という結果が生じるのだと思ったからでもあった。

 そうした基本的な考えは、実は今でも変わってはいない。タンパク質という物質で構成された脳細胞の集団が、どんなプログラムなりシステムによって頭脳として機能しているのかはともかく、少なくとも人間そして私という人格なり性質なりを構成していると思っているからである。

 ただこの頃、人工知能の発達が日常的な話題として世間に広がっていくにつけ、私の抱いている人工知能のイメージとは少し違うような気がしだしてきているのである。人工知能と呼ばれるものの能力を疑っているわけではない。その信頼性に疑問を抱いているわけでもない。ただ、「私の思っている人工知能」と、少しかけ離れてきているのではないかと感じ始めてきているのである。

 それは、人工知能の手法がいわゆる「ディープラーニング」(深層学習と訳されているようだが、私の能力でそれをきちんと理解するのはいささか無理のようである)とイコールになってしまっているように思えてならないからである。

 AIと呼ばれる機能のほとんどに、このディプラーニングが採用されているように思う。ディプラーニングに関する解説書も一通りは読んでみて、膨大な量のデータ(ビッグデータ)を短時間で処理するシステムであることは理解できた。だが、なぜAIは猫の写真を見て猫だと判断できるように学習することができるのかをちきんと理解することはできなかった。もちろんそれは単に私の能力の問題であって、だからと言ってそうしたシステムの価値を否定する根拠にならないことくらい明らかであろう。

 カラーテレビがどうして家庭のテレビ画面に映るのかを知らなくたって、テレビを楽しむことは出来るだろう。またパソコンやインターネットの仕組みを知らなくても、こうしてネット社会に自らのエッセイを発表して楽しむこともできる。それと同じことだからである。

 コンピューターが社会に現れたのは私が生まれてからのことであり、78歳の私にしてみれば最近のことである。マシンは電卓から始まり、マイコン、ワープロへと発達し、そしてスマホへ進化、更にはスパコンと呼ばれるまでになった。最近の囲碁のプログラムから医療現場の画像診断に見られるように、マシンはいつの間にか当たり前に人間の能力を超えるようになった。

 そのことで人間の仕事が奪われるとか、人間のやる仕事がなくなってしまうなどといった心配は止そう。蒸気機関車や自動車やダイナマイトなどなど、人類による発明がそれまでの人類の仕事を奪ってきたことは、その発明に伴う新しい仕事の創出も含めて、人類史上の当たり前の現象だと思うからである。

 ただ私はどこかで、人工知能とは「計算速度を競うマシン」ではなく、「人間と同じような知能を持つマシン」だと思い込んでいたようである。つまり、感情も芸術も、更に言うなら犯罪や戦争や娯楽なども人間の知能の成果なのだから、マシンの機能もそれに限りなく近づいていくものだとの思い込みがあったようだ。

 それがディプラーニングというシステムの採用により、それとは異なった方向へと進んでいっているのではないかと思えるようになってきたからである。それは、人間の頭脳、少なくとも私の脳は、決してディープラーニングで動いているわけではないと思ったからである。

 ディープラーニングとは、無数とも言える大量のデータを瞬時に処理できる手法である。それは、答を見つけるための一つの手法であることに異論はない。そして極めて優れた手法であることまで否定しようとは思わない。だが、それは断じて人間が日常的に用いている手法ではない。私たちは、決してディープラーニング手法によって物事を判断したり決断したりしているのではない、ということである。

 ディプラーニングのそもそもをきちんと知らない私が、こんなことを言っても説得力に欠けるかもしれない。だが私たちは常日頃、無数の判断をし、無数の決断を下している。それは、映画を見て涙を流すことや、小説を読んでつまらないと感じること、そして音楽を聴いてモーツアルトとベートーベンを混同することや、更には今日の昼飯に何を食おうと考えることなどまで、まさに無限とも言えるほど多様な判断の渦中で私たちは人生を過ごしている。そうした判断の過程そのものが、人間というものの本質にあるように思う。

 だが、そうした有意義か無意味かなどとは無関係に下している様々な判断は、決してディープラーニングによったものではない。だからこそ人は間違うのかも知れないし、時にとんでもないひらめきを得るのかもしれない。

 かつて、私の青年時代に便哲という言葉が流行ったことがある。便哲とは「便所哲学」の意味である。何のことはない、便所の中で孤独に用を足しているときに、突如として人生の啓示や意味を理解できることがある、そんな意味である。

 だからと言って私は、ディプラーニングそのものを否定するつもりはない。逆にこれから更に発達していくだろうとも思っている。ただその方向は、私の思っている通俗的な意味での人工知能、分りやすく言うなら「血も涙も通っている人間と同じような知能」とは異なる方向への進化になってしまうのではないかと思っているのである。

 つまり、現在考えられている人工知能とは、改良された単なるコンピュータープログラムというかアルゴリズムにしか過ぎず、人間に近づこうとも人間らしくなるようにも考えられていないのではないかということである。もしかしたらマシンは人間の真似をすることはできても、人間に近づくことはできないのではないか。ビッグデータ処理のアルゴリズム、それを人工知能と錯覚しているのではないのか。もしそうなら、人工知能そして「人」とは、一体果たして何者なのだろうか。


                                     2018.4.21        佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ
 
 
 
人工知能とその行方