企業でも個人でも、経営者が従業員に向かって「お客様は神様です」を、一種の指針として示すことがある。こうした経営者の思いを、一概に間違いだとか誤りだとは思わない。
「神様」という呼称には相手を絶対者とみなすような意味合いがあるので、いささかの抵抗感がないわけではない。それでも、「お客様を大切に・・・」の意味を込めた誇張表現だと思えば、それはそれで理解できるものがある。
ただそれは、経営者もしくは従業員の目線が顧客や消費者に向いているという、一方的な目線であることを前提として「理解できる」のではないかと感じている。
お客様を神様に喩えるのは、恐らく多神教を背景とする日本文化特有の発想かもしれない。八百万(やおよろず)に神が存在することは、まさに日本の風土そのものである。子どもの頃、お正月には注連飾りやお供え餅を家中の色々なところに飾った記憶がある。門口たる玄関や自らの住まいである神棚だけではなく、台所、トイレ、水道・・・、住宅のいたるところに神は独立した神として住んでいたのである。山にも川にも海にも、その辺の石ころや草木にも神は存在していた。
だとするなら、数多の神の中に「お客様」をひっそりと一つくらい加えたところで、誰からもどこからも異議の起きることなどないだろう。そうした異議などないだろうとする第一の要因は、神の側に神としての認識がない、もしくはこだわらないことにあったような気がする。
神自らが自らを神として崇めよと信者に主張することは、一神教であるイスラム教やキリスト教などでは当たり前のことである。だが、少なくとも多神教の国である日本の神は、そんな主張をすることはなかった。神は人から尊敬され、支持され、敬われることはあっても、自らを「神として崇めよ」と強要することはなかった。多神教における神は常に控え目であり、受身であったということであろうか。
もちろん神として信仰の対象になっているのだから、何らかの意味で感謝され、時に恐れられていたことは否定できないだろう。たとえそれが死後の扱いを巡るものであったり、何らかの「抽象的な罰や報復への恐怖」であったにせよである。
それが多神教国である日本にも、この「我を崇めよ」たる要求が多発するようになってきた。しかもその要求は、神自身からなされるようになってきたのである。そしてその神は、従来からの山川草木に宿っていた神ではなかった。なんとそうした主張は、新設された神、新しく創造された神、従来神としての地位を与えられていなかった新参者の神からのものだったのである。
もう分るだろう。新しく神と認定された「お客様集団」たるそれぞれが、勝手に自らを神として崇めよと主張しだしたのである。一神教の信者であるなら神は常に一人?(一つ?)なのだから、「信じている唯一の神」以外に複数の神の存在など考えようもなかったことだろう。ましてや、自らを神とする思いなど論外である。
だが多神教における神は八百万(やおよろず)である。それは800万を定員とする上限を意味するものではない。あらゆるものに神が宿るという意味で、その数が一千万に及ぼうが一億を超えようが無制限の増殖を許すことになったのである。
「お客様は神様」の発想は、あらゆる人がお客様になれる現実、いやむしろ「お客様にならなければ生活していけない現実」を土台に、瞬く間に増殖することになった。なぜならあらゆる人が、事実として「お客様」であったし、「お客様」であることを離れて人間の存在そのものを考えることなどできないからである。
その瞬間に、あらゆる人は、「お客様」であることを背景に、「神様」に昇格したのである。神は絶対者である。神に不可能はない。神の命令もまた絶対である。「アラーは偉大なり」はテロリストが標的を攻撃したり自爆したりするときの定番になっている。そのアラーなり、キリストなりに、人は「お客様」であることを下地にして「お客様」は下体したのである。
かくして日本人は、このマジックワード「お客様は神様です」を唱えることで、一瞬にして我が身を神の座に据え置くこととなったのである。その座に鎮座した神は、「私の言うことは誰もが聞かなければならない」という新しい宗教の教祖様になったのである。
そうした思いを錯覚だとか滑稽だなどと否定することはたやすいだろう。間違いだと批判することだって可能である。だが「お客様が神様です」の錯覚は、私たち信じたかった幻想であり、私たち自身が作り上げた幻想なのである。そしてその信仰の根源は、私たち日本人が心から「信じたい」と思っていることの結論だったのである。
何たって「私は神様」なのであり、私に逆らうことなど決して許されない絶対者なのである。一切の口ごたえ、どんな言い訳、あらゆる否定的な言動すら許されない、ひたすら平伏することだけしか認めない、「私は神様」なのである。たとえそれを「クレィマー」と影で呼ぼうとも、少なくとも神の前で呼ぶことだけは決して許されないのである。多様化された社会は、そうした新人類たる神様をも産み増殖させることになったのである。
2018.3.16
佐々木利夫
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