ユリカモメの首に紙製らしい矢が刺さっているという事件が起き、加害した容疑で近くに住む男性が事情聴取を受けているとのニュースが流れた(2018.4.8、朝日新聞)。宮城県石巻市での出来事だそうである。

 こうした事実を批判することはたやすい。自然に矢の刺さる状態が起きるとは思えないので、恐らく心無い人間が作為的に行ったことなのだろうことくらいは、容易に推察できる。だから、そんな行為を行ったであろう人間に対して、「かわいい鳥に何てことをするんだ」の一言を発するだけで、非難の声としては十分である。「何にも悪いことをしていない鳥に、何と残酷なことを・・・」、こんな一言を追加できるならその非難は一層確固たるものになるだろう。

 私だってこんな行為を擁護するつもりはないし、そんな場面に出くわしたなら、「やめろ」の一言くらいは発するだろうとは思う。それは単に「狙われた鳥にも命がある」との思いからだけではない。鳥に矢を向ける行為には「射る側の自己満足」という側面があるのかも知れないけれど、それ以外に何の正当性も見つけることができないからである。

 ただ、この事件で私が気になったのは、この容疑者が事情聴取されたのが、ユリカモメの捕獲は鳥獣保護法(正式には「鳥獣の保護及び管理並びに狩猟の適正化に関する法律」)で禁じられている行為であることが原因だとされていたからである。つまりこの行為に鳥獣保護法違反の疑いがあるとして、警察は容疑者に対して事情聴取のみならず家宅捜索まで実施したというのである。

 私はこの容疑者たる男性の弁護をしたいと思っているわけではない。この男性の行為が単に鳥を狙っただけで「捕獲」という法的要件を満たしているかどうか疑わしいなどと言いたいのでもない。また、ユリカモメが鳥獣保護法の適用される動物に入っているかどうかに疑問を感じたということでもない。また更に言うなら、動物といえども命に軽重の違いなどないとか、人間の命も鳥の命も同じくらい大切だなどと、と命そのものの重さについて感じたからでもない。

 命の重さに触れてしまったら、私たちが日常生活で当たり前に過ごしている食生活の様々が、頭から成立しなくなってしまうと思うからである。私たちが日常、豚肉や牛肉や鶏肉を当たり前に食べていることや、極端に言うなら魚や野菜にだって命が存在していることとの矛盾などが必然的にからんでくるだろうからである。

 恐らく鳥獣保護法の背景には、鳥や獣の人間との密着度や可愛らしさなどがあるのだろう。「身近にいて可愛いこと」、これが保護すべき法律制定の初歩的な根拠になっているのではないかということである。

 このように考えてくると、鳥獣保護法はけっして「命そのものの保護」を目的とした法律ではないということが分ってくる。それはそうだろう。「命全体」を保護するという考え自体が、「命を糧にして人間の生存が成り立っている」という大きな前提の下では、何の意味も持たないことになってしまうからである。

 もちろんこの法律の目的が、命の保護と無関係だと言いたいわけではない。ただ「鳥獣とは、鳥類又は哺乳類に属する野生動物をいう」(第二条)とし、更に鳥獣を「希少鳥獣」、「指定管理鳥獣」に分類していることは、明らかに保護の対象を特定の生物に限定していていることを示している。つまり、全生物の生命の保護とは明らかに異なっているということである。

 私たちはこのカモメの映像を見て無意識に、「何と可哀想」、「なんと残酷な」と感じてしまう。そうした思いはこのカモメの姿だけに限定されるものではなく、「命全体」に共通する意識なのではいだろうか。この事件で、加害者と思われる男性が鳥獣保護法違反として事情聴取されてる。だが、そうした行為を取り締まるとされる鳥獣保護法は、この場合のカモメには適用されるのかもしれない。だがそれはそのまま、一般的な「動物の命」という問題には必ずしも関わってこないことを意味している。

 そんな限定的な動物保護に対して、私は人間の抱く「選別された命に対するエゴ」を感じてしまうのである。そのエゴは「人間との密着度」であるとか、「可愛さ」にあると先に述べた。この思いは必ずしも正確ではないかもしれない。可愛さのほかにも、例えば希少価値であるとか人類への有益性などの要因があるかもしれない。それでも、「他者の命」は人間のエゴでその価値が左右されてしまうことは否めないのではないだろうか。

 そんな思いでいるときに、ペットに関する読者の声を集めた特集記事が載った(2018.4.11、朝日新聞、声)。それは、「安楽死」をめぐるもので、まさにペットの命をどう考えるかに直接向かい合うものであった。

 読者の問いかけに呼応するもので、その問いかけの記事は愛犬を安楽死させたことに対する迷いを訴えるものであった。そして4人の読者から回答が寄せられた。一人が「・・・今も命を全うさせなかった後悔が残り・・・」としているが、他の三人は「獣医師から『これでゆっくり休めるよ』の一言に救われた」、「自分を責めたけど時間が解決。苦しみから解放されホッとしました」、「どちらの選択も飼い主の愛」と寄せるなど、ペットの死に心残りはあるもののいずれも安楽死を容認する意見であった。

 安楽死に反対する意見も「後悔が残り・・・」としているだけだから、必ずしも明確に反対の立場を示しているとは思えない。そして私は思ったのである。恐らく、意見を寄せた5人のだれもが、もし対象が人間だったなら、そんな思いは抱かなかったのではないだろうかと・・・。

 それは人間の安楽死は、少なくと現行法では禁止されているという理屈からくるものではないだろう。「苦しみから解放されるのなら、安楽死は人間にも許される」という理屈が、少なくとも人間には当てはまらないと思っているからなのではないだろうか。

 これらの意見を見る限り、若干の距離感の違いはあるものの、ペットの命は「飼い主である私の裁量の範囲内にある」ことを所与の事実としているように読み取ることができる。その背景には、「人の命」と「人以外の命」に対する思いの違い、があるのかもしれない。それは単に命の軽重ではなく、命の質に対する基本的な考え方の違いにあるように私には思える。

 そうした命に対する思いの違いを、単に「ペットの可愛さ」という論理だけに集約させてしまっていいのだろうか。命もまた、「価値のない命」、「普通の命」、「珍しい命」、「可愛いい命」、「大切な命」、「守らなければならない命」、「憎たらしい命」、などなど、命の質をめぐる連続体のどこかに位置づけられるものとしてとらえるべきものなのだろうか。


                                     2018.4.13       佐々木利夫


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ユリカモメの首に矢