臭いや音に敏感な者を障害者として保護しようとする番組を見た。感触的には分るのだが、感覚の鋭敏さを明らかな「障害」、つまり病気として認識するまでに社会が住みにくくなっていることに、一種の驚きを感じてしまった。感覚障害とは少し違うのだが、発達障害という診断名もあり、これもまた現代の社会生活に組み込まれている。

 不正確なのだろうが、極めて大雑把に言ってしまうなら、ある者(患者と言っていいのだろうか)の「思いや感覚の方向が他人の違う」ことを異状として位置づけ、区別しようとするものである。障害と名づけているのだから、どこまでそれが社会的に成立しているかどうかはともかく、正常と区別しようとしているのは確かなのだろう。つまり、正常と異状の区分であり、異常を障害と呼びその障害を持つ者を障害者として、正常者とは違うものとして位置づけようとするものである。

 人は他者を何らかの基準で区別し、その違いを基に他者を排斥しようとしてきたことはこれまでの歴史や国際社会の現状が明らかに示している。その基準には、地域や親族や貧富や肌の色など多様なものがあり、また他方同族であっても犯罪や宗教や思想などによる区別もあった。それはまた、病気であるとか遺伝的な形質の違いなどにまで及んでいく。

 2018.11.13朝のNHKテレビは、アルビノを取り上げていた。アルビノとは、遺伝的に生まれながら皮膚組織の色が欠如している現象で、アフリカに多く見られると伝えていた。日本でも「白子」と呼ばれて、肌の色の違いが差別の原因になっていることを聞いたことがある。

 どの話題でも似たような問題が発生するとは思うのだが、アルビノを報道したテレビは、アルビノと呼ばれる人たちへの迫害を阻止し支援する団体の意見として、「皮膚の色ではなく、内面の違いを考えよう」との考えを示していた。

 こうした主張は、一見正論のように見える。私も一瞬、当たり前のことが言われているように感じてしまった。でも、この言葉は、差別の対象を、「色から内面」に代えただけにしか過ぎないことにすぐ気づいてしまった。しかも、そうした主張している人が、少しもその矛盾に気づいていないことが分ってしまったのである。

 様々な障害者や貧困者、いわゆる社会的弱者と言われる人たちを支援する組織がある。そしてそうした組織は障害や貧困などの程度によって異なった組織形態を持っている。つまり、「社会的弱者救済組織」と呼ばれるような集約的なものは一つもないのである。

 地域・地方から全国組織へ、そして時には国際組織へと統合されていく組織は多い。視覚にしろ、聴覚にしろ、発達障害と呼ばれる学習能力の欠如にしろ、がん患者支援やアルビノ支援などまで、個別の障害を基とした支援組織は数多く存在する。無数と言ってもいいほど存在している。

 だからそうなるのかも知れないが、「せめて私の組織だけは助けて欲しい」との思いが、どうしても他者の排斥につながってしまうことに気づいたのである。恐らく、改めて問いかけるなら、「そんなことは少しも思っていない」と当事者は答えるだろう。そしてそうした思いが嘘だとは思わない。

 アルビノの支援者は、アルビノ患者を真剣に助けたいと思っているのだろう。それでも言葉として「人間を外見で判断してはいけない、心を見て欲しい」と無意識に叫んでしまうのである。そして主張する人は、その通りだと思ってしまうのである。

 外見で区別するのは誤りだけれど、心で区別することは無意識に承認しているのである。心を一律に精神という言葉で代表させてしまうことは間違いかもしれない。それでも精神的に弱い者、低い者は区別は許されるが、アルビノの差別は間違いだと主張してしまうのである。「あらゆる差別は許されない」のではなく、目の見えない人を真っ先に救って欲しい、アルビノに悩む人たちをまず第一に支援して欲しい、学校にも行けず給食もない貧困の児童の救済こそ社会の急務である・・・、支援者はこぞって「私こそ正しい」と叫ぶのである。

 そうした叫びは、決して「あらゆる差別は誤りであり、私たちの支援する○○も含めて、全体を均等に助けて欲しい」との叫びになることはない。そして己の主張のみが常に正しいと思い込んでしまう。

 感覚過敏も同様である。きつい臭いに、生活が破壊されるほど影響を受けると感じる人がいないとはいえないだろう。それを否定するものではない。

 ただ、そんなふうに人を区別して、それを「救済すべきだ」としてしまったら、世の中は区別だらけになってしまうような気がしてならない。人は社会という共同体の中で、ある種の制約を承認することで生活してきた。それを我慢と呼ぶか、協調と呼ぶか、はたまた妥協とか理解などと名づけるかはともかく、あらゆる違いを分類してそれぞれに対応していくのが正義なのだろうか。

 かつて精神障害のところでも触れたことがあるのだが、私たちには理解できないほど多数の病名がある。恐らく病名の数だけ、もしかしたらもっと多数の診断名が存在するのかもしれないが、それだけ多様な病気の集団を精神障害と一括して呼んでいるのかもしれない。

 そして今回は感覚過敏であるとかアルビノであるなど、更に人間を細かく分類することを知った。区分するのはいい。それぞれに対応した救済を考慮すべきだとするなら、それはそれでいいだろう。

 そうした考えと、人類の多様性などという理屈とはどう関わっていけばいいのだろうか。なんでもかんでも個性という言葉の中に押し込めたいとは思わない。それでも、多様性とは一人一人違いことを意味している。そうした個性というか人格ともいうべき違いを、あまりに多様に分類して個別の救済へ対応しようとしている現代社会が、「優しさ」を全面に出しながらも、どこかで間違った方向へと進んでいっているように思えてならない。

 人は集団で生きることで種の存続を図ってきた。それはそのまま、集団としての存在価値、つまり個性を押しなべて平準化して評価することで発達してきたのではないだろうか。それはそのまま、四捨五入なのか、それとも受忍限度なのか、それとも不当な扱いをひたすら我慢するグループの存在を予め予定していたのか、その是非はともかく人はそうして社会を作ってきたのである。

 多様性の承認は、逆に一人一人が弱者であることを承認する場面の拡大にもなっている。それはそれでいいとは思うけれど、「私だけを特別に支援して欲しい」、「私たちのグループだけでもきちんと理解して欲しい」と言った、我田引水の主張を強める引き金にもなっている。

 それをわがままとは言うまい。それでもそうした主張は「私だけ良ければ、他のことには目をつむる。無視する。知らないふりをする」、と言う独善につながってしまうような気がしてならない。そしてそれは間違った方向なのではないかと気がかりなのである。

 こうした言い方は反感を買うのではないかと思う。「弱者に優しく」は、理屈の上では正論を超える正論になっているからである。したがって私の理屈は弱肉強食を承認せよと受け取られる恐れがある。

 そわさりながら、世の中は現実に強者が構築する社会で成り立っており、それを私たちは承認していることも忘れてはならない。しかも弱者の定義にもよるだろうけれど、強者と普通人が多数を占めているのである。そして普通人は強者の意見を支持し応援している。

 いきおい、弱者に向けた政策は、「金がない」に代表される強者の意見、そして強者に群れる普通人に向けた社会になりやすいのである。
 
 世界のあらゆる国で潮流となっている難民政策や移民の排斥などの現実は、その最たる表れである。理屈では難民や移民を救おうと言いつつ、でも私の隣に住むのは嫌という気運が世界に広がっているのである。それは身近にはゴミ焼却炉や火葬場の近隣への設置反対にもつながっているのである。

 口で言うだけでなく、態度で承認することのいかに難しいことか、社会はそうした人たちでできているのである。例外がないとは言わない。でもそれが「人」なのである。そして「社会」なのである。そして区別の多様化は、人が身勝手に作り上げているもののように思えてならないのである。


                            2018.11.15     佐々木利夫


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感覚過敏の有無