官僚という語が、公務員のどの範囲までを指しているのか、実はよく分からない。辞書やネットで調べて見ても、広く「行政を執行する公務員」から始まって、下級の事務職的職員や労働者は除くとされる解釈や、中級、上級の職員に限定されるとする解釈、更には「国政に影響力を持つ上層の公務員群」とする解釈など、かなり限定された階層までその範囲は様々である。

 しかし実際に官僚という言葉が使用されているケースは、「かくあるべきと思える公務員の範囲から逸脱している公務員」という意味が多く、下級〜上級といった階級とはそれほど関係がないように思える。つまるところ単なる階層における位置関係を示すのではなく、「望ましくない公務員への批判」として使用されているのが実態であるように思える。

 つまり、公務員に「自分の言い分が聞いてもらえなかった者」の発する、その相手たる公務員への不満の捌け口が、その相手を官僚と呼ぶことの原動力になっているのではないかということである。または、そうした悪口を普遍化して、公務員を蔑視し揶揄し批判する意味で「官僚」という呼び名を使用しているように思われてならない。

 ところで、公務員であることそのものが、批判の対象になっているわけではない。公務員という職業そのものが批判の対象になるのなら、わざわざ区別して「官僚」という区分をつくる意味がないからである。それは公務員にも「良い人」と「悪い人」がいるという、区別を意味しているのかもしれない。

 だとするなら、その良し悪しの基準はどこにあるのだろう。単に良し悪しで分けるのなら汚職公務員とか犯罪公務員などが悪で、一生懸命仕事に励む公務員は善ということになる。しかし、どうもそんな意味で「官僚」という言葉が使われているようには思えない。悪を表示するだけなら、悪徳警官や悪徳公務員という呼称で済むだろうからである。

 官僚という言葉で一番分りやすい表現に「融通が利かない」がある。つまり、「融通を利かせる公務員」が良い公務員であり、四角四面の融通が利かない公務員を批判しそれを官僚と呼称するのである。つまりは、融通をきかせるべきだという基準が先にあり、その基準たる「融通」は社会的な意味における善悪とは別次元の判断だということになる。

 私は高校を卒業して以来、定年退職までの約40年を税務職員として国家公務員を務めてきた。その期間を生涯と言ってしまったら言い過ぎになるけれど、現在の税理士稼業を加えるなら生涯に近い期間を税に関わって過ごしてきたことになる。

 私が官僚かどうかは私自身が決めることではないかも知れないけれど、少なくとも「国政に影響力を持つ」ほどの地位にいたことはないので、狭い意味での官僚ではなかっただろう。それでは、「融通」についてはどうだろうか。

 そのことについては断言できる。私は決して「融通を利かすこと」はしなかったからである。むしろ「融通を利かすこと」は公務員として許されない行為であると信じて行動してきたからである。

 「融通とは何か」を厳格に問われるれと難しいかもしれないけれど、少なくとも私は「法律を四角四面に執行する」ことを、与えられた使命として人生のほとんどを過ごしてきたということだけは言える。

 だから、「融通の利かない公務員」、「融通を利かせない公務員」という意味だけで官僚という言葉を定義しているのだとすれば、私は間違いなく「官僚」としての人生を送ってきたことになる。

 そういう意味では、私は「官僚」であることを少しも恥だとは思わない。むしろ、公務員は官僚であるべきだとすら思っている。

 「融通」という言葉は、少なくとも日本においては「生活上の潤滑油」、「社会生活を営む上での潤い」みたいな意味合いが強いように思う。ぎすぎすしないで、互いに角の立たないような交際の仕方を、私たちは「望ましい対人関係」、「あるべき社会生活の基礎」と位置づけてきたように思う。

 そこへ融通を無視した法律が入り込んでくる。10万円の儲けに対して税金10パーセントで1万円、と法律が定める。そして12月31日までに申告し、納税せよと定める。更に申告や納税がこの期限に遅れた者には、税金の一定割合の加算税や利息を課すと定める。その他、これこれの事実に該当する場合は犯罪として処罰するなど多くの規制がある。こうした定められたシステムに、いわゆる「融通」がどこまで入っていいのだろうか。どこまで入りこむ余地があるのだろうか。

 こうした事例は国民に負担を強いる税金や犯罪などに限るものではない。国民や市民が受けるサービスについても同様である。いついつまでに申請すること、希望する者は申し出ること、一定の書式なり証明書を添付することなどなど、期限や要件を付した手続は公共的なものにも多々存在する。

 そうした期限や要件が遅れたり満たさなかったりしたとき、いわゆる「融通」をどこまで認めるべきなのだろうか。顔見知りの者や親類縁者、利害関係のある者、かわいい女性には「融通」を利かせて有利に取り計らってもいいのだろうか。逆に、醜い人や憎たらしい人、威張り散らして不快さをばらまいているような者に対しては、「逆の融通」を利かせて多少不利に取り扱ってもいいのだろうか。

 私企業や個人的な対応なら、それでもいいのかも知れない。美人のママさんいる飲み屋に通うのは、客の任意であり、ママさんの立場からするなら相手の好感度に応じて代金の上げ下げをしたところで、別に構わないのかもしれないからである。

 でも、少なくとも公務員にそんなことが許されるとは思わない。相手がどんな者であろうとも、決められた法律を四角四面に適用するのが公務員の職務であり、そうすることが求められている対応だと思うのである。

 公務員と官僚を混同しているかもしれない。それでも少なくとも官僚は公務員であり、今はその官僚の融通性について話しをしているのである。その公務員に、決して「融通」などという感覚や対応があってはいけないと思うのは間違いだろうか。

 計算上は同じ額なのに相手に応じて税金の額が異なるような対応、もっと言うならある人には一割引してもいいが、他のある人には五分増ししてもいいなどといった対応は決してあってはならないのである。税は決められた額より一円たりとも多くてはならないし、一円たりとも少なくてもいけないのである。これはスピード違反の取締りにも、市役所の行う生活保護費の査定にも、宝くじの当選金の支払いにも言えることなのである。

 たとえ「融通」の意味が、相手の有利になる場合だけに限られるとしても、その「融通」は反面効果として有利さを与えた分だけ利益を受けた者以外の者、つまり国民全体の不利益が相対的に加算されることになる。

 私の税金を不正にしろ軽くしてもらったら、確かに私は嬉しいだろう。私だけが特別にスピード違反を見逃してもらったり反則金を軽くしてもらえたとするなら、私はその警官に感謝するかもしれない。ただ、そうした行為がはびこる社会は、果たして私たちの望む社会なのだろうか。そうした税務職員や警察官やそのほか多くの公務員が存在する社会を、私たちは本当に望ましい社会として承認していいのだろうか。それが私たちが望む、社会の本当の姿なのだろうか。

 だから私は、官僚は四角四面でいいのだと思っているのである。むしろ、四角四面でなければならないとさえ思っているのである。そしてそれが、私人ではなく国民全体への奉仕者として要請されている公務員に対する信頼につながるものだと思っているのである。誰に対してでも同じように四角四面に対応してくれるからこそ公務員は信頼されるのである。私も含めたすべての人に対して特別な有利さも不利益も与えることなく公正な対応をしてくれるとの安心感が、公務員に対する信頼につながるのだと思っているのである。融通を利かせないことが、公務員の基本だと思っているのである。たとえそうした行為を「官僚」と揶揄されようともである。


                                     2018.2.1        佐々木利夫


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官僚って何だ