健康保険でどこまで治療薬として認めてもらえるかが、主としてガン治療の分野で話題になっている。ガン治療薬といっても様々な種類があるとは思うけれど、中でも特に分子標的薬と呼ばれる分野の薬に話題が集中しているようだ。

 何が問題なのか。それはその薬がすさまじく高額だからである。例えば「オプジーボ」と呼ばれる主として皮膚がんに有効とされている薬は、一ヶ月の薬代が約300万円、一年間だと3600万円にもなると言われている。健康保険の被保険者の自己負担一割だとすると、患者本人の一ヶ月の負担は30万円だが、健康保険組合は9割の270万円を医師に支払うことになる。しかも高額療養費の支援制度があるので、すごく大雑把な話ではあるが、患者の自己負担は数万円で済むことになるから、薬価のほとんどを建保組合が負担することになる。

 それが健康保険の目的なのだし、だからこそ私たちは医療保険制度を信頼し掛け金を支払っているのだといえる。自己負担が数万円だと言ったところで、その負担に耐えられないような世帯や家族がいないとは言えない。ただそうしたことどもを敢えて無視するなら、保健制度と言うのは、どんなに難しくて高額な治療でも保健制度と言うシステムの中で賄うことを意味している。

 金銭の不安を考えることなく、安心して治療を任せることができる、これこそが患者や家族にとって安心安定の最高の医療水準になるだろう。

 「医療にあって、どんな場合にも互いに助け合うこと」が健康保険制度の目的だとは思う。患者にとってこうした考えは、まさに正論であり希望であり理想になるだろう。だが、健康保険の目的が、「各人から保険料を集めて、その集まった金銭の範囲内で加入者同士の互助をする」というような金銭の問題を加えると、とたんその正論は基本から揺らいでしまう。

 それはつまり、「ない袖は振れない」場合が出てくるからである。健康保険の目的が、「集まった金銭の範囲内で医療費をまかなう」にある以上、その範囲を超えた金銭の負担をすることは物理的にできないことになるからである。仮に一時的な支出超過だとしても、その超えた部分は借金になるのであり、その返済は後日徴収される各人からの負担金で賄わなければならないことになる。

 だからこそ、「どこまで治療するのか」が保健制度として参加者各人からの合意が必要となるのである。ここに「確実に治る治療手段があり」、「だが高額であるため、保健では認めるわけにはいきません」と言われた患者にとって、その限度を示す支払い側の言葉は残酷である。

 認められない治療だと言われても、それに代替手段があるのなら、それはそれで納得できる面もある。「こうすれば手術痕は残らないけれど、保健適用ではそうした手段は認められていません」、とか「効果は小さいけれど、それなり治療効果のある薬剤は保健適用で使える」など、どこか感触的にはわだかまりが残るとして、患者が受ける感触程度の問題であるなら、多少患者に我慢を強いることがあっても納得させられるような気がする。

 だが例えば今回のような分子標的薬と呼ばれる薬剤は、患者個々人の遺伝子情報と結びついている薬剤である。治療効果は大きいものの対象者が限定されるなどから、結局その薬は高額なものになってしまう。しかもその高額さは我々の抱いている常識からかけ離れたものなのである。

 「私にだけ効果がある薬」を開発するために、例えば専門の研究所を設立し多数の研究員を従事させるとするなら、それこそ天文学的な費用がかかるだろう。「私にだけ・・・」というのは言い過ぎかもしれないけれど、現代の医療は、「大衆に効く薬」から「特定人に効く薬」へと開発の方向が変化していっている。

 落語に「葛根湯医者」というのがある。風邪だろうが、腰痛だろうが、胃痛から歯の痛みまで、なんでもかんでも葛根湯を処方するしか能力のない医者の話である。ただそうした話しがあるということは、逆に言うと「葛根湯さえあれば何にでも効く」という、一種の信仰じみた思いが庶民の中にもあったことを意味しているのかもしれない。そういう時代なら、患者みんなで葛根湯を分かち合うことで病気を治そうという感覚になってもいいだろう。

 だが今の社会は、そうした事例の通じない時代になってきてしまった。しかも耐性菌の増加は、新薬の開発へと製薬メーカーへ新薬開発を刺激することにならざるを得ない。そして今回のような分子標的薬などという、特定の遺伝子を持つ患者にしか効果のない薬の開発へと向かわせることになる。

 薬はこれから益々高額化するだろう。抗生物質は土壌や特定の菌から抽出されるという。だが、現在世界中の土壌は研究し尽くされており、そう簡単には新しい抗生物質は発見できなくなっている。また、発見までのプロセスや手法などに多額の費用がかかり、それも医薬品の高額化を招く原因になっている。

 今後高齢化はますます進み、それに従って医療費も増大していくだろう。かつてなら手遅れとして処理できたようなケースでも、進化した医療器械はそうした「自然に死ぬ」という道を許さなくなってきている。そしてそれもこれも、高額な医療として健康保険、そしてそれを維持するための国民へと跳ね返ってくるのである。

 「治るのに見捨てるのか」との疑問は、どんな場合も患者から健保へと発せられ続けることであろう。そしてその答は「金がないからできません」なのだが、それがどこまで私たちを納得させられるのか、健保の未来は暗い。なぜならその質問は、命に向けられた疑問だからである。






                                     2018.8.2        佐々木利夫


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