9条を巡る憲法改正論議が騒がしい。自衛隊が憲法違反かそうでないかなどの論議を払拭するためにも、自衛隊の存在をきちんと憲法に明記した9条の改正が必要だとする意見が改憲論の基調である。確かに過去において自衛隊は違憲か合憲かを巡る議論があり、そして最高裁まで争われた歴史を持っている。

 だが合憲という解釈が最高裁で示され、今では国民の多くがその解釈に納得しているように思える。もちろん未だに違憲だとする考えを持つ人がいたとても、それはそれでいいと思う。ただ、そうした解釈が政治の方向を歪めたり行政の執行に支障を与えたりしているようには思えない。今では国会議員の誰一人として、自衛隊が違憲だと主張する者はいなのではないだろうか。

 また、例えば教育の無償化の範囲を義務教育だけに制限している憲法を、高校や大学などにまで拡大するためにも改正は必要だとする意見もある。しかし、教育の拡大であるとか人権の拡張など、国民の福祉や権利をプラスの方向へと拡大するような解釈や新しい法律の制定は、仮に憲法で定める範囲を超えたとしても、そのことゆえに憲法違反だとする反対論が起きることは考えにくい。

 つまり、義務教育の範囲を大学まで拡大するような立法をしたときに、その立法が憲法の範囲を超えているとの理由で、大学無償化は憲法違反であり無効であるとの主張が国民から起こされ、裁判所もその主張を認めるような事態の発生は考えにくいということである。

 最近の憲法改正をめぐる論議には、たとえ解釈論にしろ国民に不利益を強いるような意図が隠されているように思えてならない。それは国民の一見利益と見られるような改正項目とセットになって、影に隠されているいるように思えるからである。国民が本当に納得するような内容なら、仮に憲法を超えるような立法があったとしても、国民から憲法違反の主張を受けることなどない、つまり改憲の必要などないと思えるからである。

 そんな思いを抱いているときに、こんな新聞論評を読んだ。批評家の肩書きを持ついわゆる識者による、投稿というか評論ともいうべきもので、「必要な条文 自ら考えよう」とのタイトルが付されていた(朝日新聞、2018.3.24)。

 その中で筆者はこんな意見を主張している。「・・・日本人は自分たちで統治のルールを作るという経験が少ないのです。自ら考え、議論をすることで、国民が憲法の意味をより理解でき、より有効に政府の暴走をおさえる法典になるはずです」。

 この意見を読んで、言ってることは言葉としては正しいと思った。だが、どこまで筆者がこの主張を信じているのか、そしてそれはどこまで実現が可能なのかを考え、そこで私のへそが曲がってしまったのである。

 筆者の意見は憲法改正論議をめぐる主張である。だから彼の主張は、憲法改正だけに限定される意見なのだろう。多くの人々が重要な決定を含めて、ほとんどの選択を他者に委ねている現状の中で、「少なくとも憲法改正くらいは自分の頭で考えろ」との意見なのだと思う。

 観念的には理解できる意見である。なんたって憲法なのだし、日本国存立の基本たる法の改正が論議されているのだからである。現行でも言われているが、憲法は最高法規として位置づけられている国の要である。だからこそその改正を考えるに当たっては、一つ一つの条文について、国民の一人一人が自分の頭でとことん考え抜くべきだと言いたいのだろう。

 言葉として正論であることは分る。憲法が国の基本であるということは、同時にその国を構成する国民個々人の生き様を決める基本であることをも意味している。それは分る。しかしながら、どこまでこの正論が通じるのだろうか。果たしてどこまでその正論の実現が可能なのだろうか。

 日本の有権者数は約一億人である。憲法の適用範囲には乳幼児まで含まれるから、有権者だけに改正の論議を委ねてしまうのは問題があるとは思うけれど、「子どもには憲法を判断するだけの能力がない」と法律が決めているのだから、当面この点の論議はしないことにする。

 さて、この一億人の有権者に向かって、筆者は「自分で憲法の条文を考えよう」と訴えている。だが私にはこの訴えが、とてもまともな思いからきているとは思えないのである。どんな手段で、どんな方法で、そしてどこまで、彼は一億人の国民に「自分の頭で条文まで考える憲法」の具体的実践を望んでいるのだろう。

 もしかしたら、彼の言う「自分で考える条文」というのは、例えば選挙で選んだ国会議員が国民一人一人の委託された権限の下で考えた条文を意味するのかもしれない。でもそんな解釈は、「国民がみんなで一から議論して作り上げたもの」との主張と矛盾するし、「憲法の専門家や政治家だけでなく、一般の人々も含めて、幅広く考えるのです」とする主張とも真っ向から矛盾することになる。

 だとすれば、まさに言葉通りに国民の一人一人が自らの頭で憲法の条文まで考え、そして作り上げるべきだとの思いを意味しているのだろう。ところが、そのためにどうするのか、どうしたらいいのかについて、筆者は何の提言もしていない。私には彼の意見は、不可能な結論であるにもかかわらず、それを正論でくるんで路傍に無責任に投げ出しただけのように思えてならない。実行不可能な提言を、あたかも理想と正論で味付けして、しかも食べられるように加工することのないまま、道端に放り出しただけのようにしか思えないのである。

 もちろん教育という手段がないではない。幼稚園・小学校から憲法を考える教育に取り組み、国民の誰もが憲法の条文を自らの力で考えられるような知識なり能力を身につけさせる手法を身につけさせることは可能である。それでも、果たして憲法に対する国民の意識をどこまで高めることが可能なのだろうか。

 私には彼の意見は、実現不可能、しかも金輪際無茶な思想を、対案なしに放り投げた無責任な思いに過ぎないようにしか思えないのである。彼の主張の実現は、基本的に無理、不可能だと思うのである。そして彼は自らの主張が空論であることを知りながら、それでもその主張に酔っているように思えてならないのである。錯覚であることにあえて目を閉じ、耳をふたごうとしているのである。


                                     2018.3.28      佐々木利夫


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「自ら考えよう」の正しさ