「・・・裁判を重ねても、周囲への不満や孤独感がなぜあれほどの凶行につながったのか、霧が晴れなかった」と筆者は語る(2018.6.12、朝日新聞、天声人語)。「殺すのは誰でもよかった」とうそぶく、最近の殺人事件で逮捕された容疑者の供述に、記者は10年前に発生した東京・秋葉原で起きた無差別殺傷事件の裁判を重ね、そして「そんな不条理な言い分をまた聞くことになった」と続ける。

 つい先日(6月9日)、東海道新幹線のぞみ265号の車内で起きた、殺人事件における犯人の供述に結びつけたものである。女性二人が走行中の車内で近くの若い男性から突然斧(おの、鉈・なた?)で切りつけられ、これを制止しようとした30代の男性が殺害されるという事件が起きた。幸い女性二人の命に別状はなく、犯人もその場で逮捕されたのだが、新幹線の車内での殺人事件という特殊性、犯人の放った「殺すのは誰でもよかった」との供述などが大きな話題になった。

 この頃、「誰でもよかった」、「人を殺してみたかった」などと供述する事件が、珍しくなく発生している。いわゆる動機なき殺人であり、無差別殺人と呼ばれる事件の多発である。

 天声人語子のいう「霧の中」とは、犯人の供述を聞いても殺人の動機が不明確だということを言いたいのだろう。だが、彼はどんな基準で「動機が分る、分らない」を区別しているのだろうか。何が「分る」であり、どこが「分らない」の境界なのだろうか。

 一番簡単な答は「誰にでも理解できるシナリオ」を基準とするものかもしれない。彼はそうしたシナリオを容疑者が語ることを望んでいるのだろうか。だとするなら、その供述は「容疑者にとってのシナリオ」ではなく、大衆の望むシナリオを要求していることになる。

 そうしたとき、仮に容疑者の供述した動機が、「天声人語子には理解できる動機だけれど、一般受けするような動機とは言えない」ものだったときにはどうなるのだろう。その動機は果たして「霧の晴れた動機」になるのだろうか。また、「犯人にとっては明らかな動機だけれど、他人には分ってもらえない動機」だったとき、「その動機は霧の中で理解できないから霧を晴らせ」と犯人に要求すべきものだと、彼は考えるのだろうか。

 それとも、「嘘でもいいから分かりやすいシナリオを作り上げろ」と強要しているのだろうか。そして更に言うなら、「納得できるような動機」のない殺人というものの存在そのものを、社会は許容しないということを彼は犯人に言いたいのだろうか。

 芥川龍之介の小説「藪の中」は、似たようなストーリーを取り上げたものである。夫婦が盗賊に襲われ、夫が殺される。三者それぞれの異なった証言が、何が真実かを分らなくしてしまう物語である。盗賊は「女に言われて夫と戦い殺した」と証言する。妻は「夫を殺したのは私だ」と言う。霊媒師の体を借りた死んだ夫の証言では、「私は自殺した」と言うのである。

 私たちは「人の心は分らない」という現実の中で、日常生活を繰り返しているのではないだろうか。「分らない」という現実をきちんと承認するところから、私たちの生活が始まるのではないだろうか。

 芥川龍之介はこうした状況を「藪の中」としたけれど、それはそのまま天声人語子の言う「霧が晴れなかった」であり、「霧の中」と同じ意味なのではないだろうか。

 人は他者の気持ちが分らないように作られているのである。人が進化の過程で生まれたのか、それともそこに何らかの神の一撃があったのか、それは分らない。でも今ある命は、「他者を理解できないもの」として形作られているのである。夫婦でも、親子でも、友人知人でも、更にはペットや家畜などに対してでも、少なくとも地球上に発生した生物は、「自分以外のどんな他者の気持ちも理解できない」ことを前提に作られているのである。それが生き物の出発点なのである。

 刑事ドラマや推理ドラマなどで刑事や検事や弁護士、時に被害者家族などが、犯人と思われる人物に向かって執拗に「本当のことを言え」と迫るのも、「相手の心が分らない」からである。そして更に言うなら、その「本当のこと」とは、問いかける本人にとっての都合のいい、もしくは望んでいるシナリオに沿った意味での答なのである。

 それは逆に言うなら、本当でないことであっても、本当のことだと納得できるようなストーリーなら、「本当のことになる」ことを意味している。「本当のこと」とは、実は「本当のことでなくてもいい」のである。聞いた人が納得できるストーリーが「本当のこと」になるのである。そこにあるのは「本当」とは必ずしも無関係で、「本当のこととして納得できる」という意味でしかない「本当のこと」なのである。

 私は天声人語子の言い分が「霧が晴れない」として、そこで終わってしまっているのが落ち着かないのである。「人の心は分からない」→「人間とはそういうものなのだ」とするのなら、それはそれで理解できる。しかし文章からは、「どうしても分りたい・理解したい」との彼の気持ちが伝わってくる。

 そうであるなら、そうした方向への何かの思いなり方策なりを示すべきだったのではないだろうか。私には筆者の気持ちがこの文章からは伝わってこないのである。そして、もし犯人の本当の動機が仮に分ったとして、それをどうしようと思っているかが更に疑問になったのである。

 犯人の言う「誰でもよかった」が、少なくとも筆者の思い抱くストーリーとしての動機とは違っているのだろうことは分った。そしてこの記事を読むであろう朝日新聞の読者も、きっと同じように思うだろうと想像しているのだろうことも分る。

 だが、それは筆者の独りよがりである。独善である。もし、「誰でもよかった」ではなく、「隣に座った女が気に食わなかったから」と自供したら納得するのだろうか。「止めに入った男の顔が憎たらしかったから」と言ったら、動機として納得できるのだろうか。

 それとても結局、筆者が納得できる範囲のストーリーにおさまっているかどうかによるのであり、その動機が「本当である」こととは無関係である。「本当のこととして、私は納得できるストーリーの範囲にある」だけのことにしか過ぎず、それは決して「本当の動機」とは無関係だと思うのである。


                                     2018.6.15        佐々木利夫


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霧の中の動機