数日前の新聞への読者投稿である(2018.12.4、朝日新聞、「声届かない国会に誰がした」、千葉県、62歳、無職女性)。

 彼女はこんな風に思いを展開する。「・・・いくつもの法律が十分な論議もなく成立している。・・・国会でも野党の質問に向き合わず、持論を繰り返すだけ。『どうせ過半数以上が賛成するのだから、真剣に答える必要はない』との思いなのだろうか。それは国民の声を聞いていないも同然だ。・・・棄権は白紙委任と同じです。このままでいいですか?」。

 彼女は白紙委任の非を唱えているので、理屈としては知っているのだろう。でもその前提となる「国民の声を聞いていないも同然だ」とする思いとの矛盾に少しも気づいていない。彼女が考えるべきことは、「国会の目的」、そして「国民の声」の理解である。

 国会の機能は言うまでもない。憲法は「国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である」(41条)と定め、国会の独自性を明確に示している。そして日本は法治国家である。法律がすべてに優先する社会であり、そこで適用される法律は国会だけが制定できるのである。

 そんなことを考えていたら、数日後に同じような意見の投稿にぶつかった(2018.12.9、朝日新聞、「法の中味丸投げは立法権の放棄」、千葉県、66歳、パート男性)。

 彼はこんな風に持論を展開する。「(今回の国会審議は)・・・大事なことを、法令成立後に省令すなわち政府が決めるとした。法の重要な部分まで、国会ではなく政府が決めることになるこの状態は、行政による議会に対するクーデターとも言えるのではないか。・・・国政を委ねられた議員が立法権を放棄した責任は非常に重い・・・」。

 彼はこの投稿の最初のほうで「国権の最高機関は国会である」と述べているので、立法権が国会にあることはきちんと理解していると分かる。にもかかわらずこの論述は、そうした考えを真っ向から自己否定していることに、彼自身少しも気づいていないように思える。

 この二つの意見を見ていて、ある共通した考えが背景にあることに気づく。それは自説に対するこだわりである。「私の考えに従うのが国会の役割であり、自説を承認するような法律を制定するのが国会議員の職務である」ことに、決定的に拘泥しているということである。

 投書の意見に従えば、「自らの意見だけ」が正しいのであり、それに反する国会運営は、そもそもあってはならないと思い込んでいるのである。それはそのまま、多数決による決定を全否定していることを示している。

 多数決がどんな場合も常に正しいかは、疑問だと思う。間違った政策も、独裁の許容も、その多くは多数決で決せられきた事実を、私たちは過去に嫌になるくらい経験してきているからである。

 だからと言って、多数決以外の合理的な決定方法を、私たちはまだ見つけられないでいるのである。時に独裁者による独断を多数決で承認したこともある。ポピュリズムの意味をきちんと理解しているわけではないが、大衆に迎合する政治を諸手を挙げて認めたことだってある。そしてそれぞれに、善い点、悪い点のあることに気づき、そしてそうした決定に全面的に委ねることの危うさを知った。それでも私たちは多数決を選択したのである。

 そうして選択された多数決は、ある組織における組織全体の意志の選択を、過半数を投票した国民の意見に代表させることを意味したのである。つまり、投票で決定された意志は、その決定に賛成する者も反対する者も、更には無関心である者にとっても、「否定してはいけない決定」として従わなければならない約束であることを意味したのである。

 組織の構成員(国家の場合は国民)は多様である。全員一致がその組織としてあり得べき姿なのかどうか、必ずしも言い切れないだろう。ある決定に反対する者も無関心である者もまた、組織の構成員である。反対者はその決定を承認できない思いを抱くであろう。

 それでも組織として「右」と決めたとき、「左」を主張する者も、もしくは「右でないこと」を主張する者も、共に「右」という判断に従うのが多数決なのである。多数決を選ぶということは、多数決で選ばれた「右」という結論は、組織全体として「右」を承認したということなのである。

 投稿に話を戻そう。憲法は国会を国権の最高機関として位置づけ、唯一の立法機関と定めた。そしてその意思決定は、国会議員による多数決によるものと定めたのである。国会議員の意思表示が、構成員たる個々人自らの意思とは異なるとしても、それが国会で過半数で決せられたという意味なら、それは国会の議決であり、国権の最高機関の意思表示としての立法の承認なのである。

 そこに個人としての裁量が入り込む余地はない。「多数決で決せられた」という事実だけが残るのである。そしてそこでの多数決による決定は国会の決定なのであり、国民の従うべき立法が適法に成立したと認めるしかないのである。

 もちろん多数決の根幹は国民の選挙による投票結果に基づくものである。選挙が公正に行われたとするなら、選任された議員は国民の意思を表明するサンプル集団なのである。私たちは国民自らによる直接投票という方法で立法手段を選択しなかった。私たちは直接投票という意思表示手段を選ばす、投票で選ばれた国会議員による国政運営手法を選択したのである。ならば選挙で国会議員を選ぶという手法以外に、私たちは自らの意思を示す方法はないのである。

 国会議員による国会運営は、個人の好悪を超えて国民の意思になるのである。それが選挙なのである。そうした意味で、この二つの投稿に表れた意見は、それぞれが彼らの心の中でどんなに正しかろうとも、「国会の決定に従わない」という意味で誤りなのである。認めてはいけないのである。たとえ、次回の国政選挙に対する有形無形のアピールなのだとしてもである。


                            2018.12.11     佐々木利夫


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声の届かない国会