人工知能と呼ばれるAI技術の発展が盛んである。そうした動きに、かつて私が抱いていた人間ロボットみたいな興味や関心を徐々に失ってきていることは既に何度かここへ書いたことがある。それは基本的にはAIはディープラーニングと呼ばれる、一種のコンピュータープログラムによる人まねの思考モデルに過ぎず、人間の思考は決してディープラーニングによって成立しているものではないと思ったことにある。つまり、人間は少なくとも現在考えられているAIとは別の思考過程を持っている、そんな風に思えてきたからである。

 AIは人工知能ではなかったのである。人間の模倣に特化した、単なる機械知能にしか過ぎないと分ったような気がしたたのである。そうした研究や行く末を否定したいのではない。空を飛びたいとの思いが飛行機を生み出したことは、それは人間に翼を生やすことではないにしても、同じような力を与えてくれたことを否定はできないだろう。

 つまり私たちは、人間を作ろうとしていたのではなく、たとえそれが人型にしろ箱型にしろ、人間に利便を与える道具を作ろうとしていたのである。だから、人工知能の開発も人間の思考そのものを作るのではなく、人間に似ている作用を持たせることで足りると思うのである。

 そうした進化を私たちは、「人間の頭脳と同じものを作る」ことと錯覚しているような気がする。だから計算能力が人間の100倍も数百万倍の能力を持ったマシンが開発されたところで、それは人間を超えたのではない。だから現在のディープラーニングをベースとして人工知能の開発を進めていく限り、その先はあくまで「人まね」の範囲を超えることはなくマシンの範囲に止まるのではないかと思っている。

 確かに人間の頭脳は細胞という物質から形成されていることは疑いがない。もちろん、人間の思考というものが、すべて頭脳というシステムからのみ発せられているいるのかについては疑問なしとしない。筋肉や内蔵や骨などなど、人体を構成する様々な部品が、それぞれに思考と呼ばれる人間活動の背景に影響を与えていることだって十分に考えられるからである。

 私がこうした文章をパソコンに向かって作成しているけれど、それは私の頭脳だけがそうした文章の作成を支援しているのか、それとも手足の動きや心臓の拍動など様々な働きが文章作成に何らかの影響を与えているのか、私には必ずしも分かっていない。

 つい最近新聞で、「AI社会 新たな世界観を」と題する科学評論を読んだ(2018.8.8、朝日新聞、科学季評論)。その中で筆者は、「(人類の祖先は脳を巨大化することで)多くの人と密接に協力関係を結ぶようになった。・・・それが、約7万年前に言葉による認知革命が起こり、さらに1万2千万年前に始まった農耕によって、より多くの人々が一緒に暮らすことが可能になった。・・・」と述べていた。

 そして、にもかからわず「・・・これまでの戦争における人間の扱いや、誤った情報操作による虐待の歴史は、いまだに人間が共感力を広げられないことを示している」と続ける。

 そうした思いに私は、共感することができた。「そうだ、そうだ」と思ったのである。人間が現在このように進化してきた背景には、こうした共感とも呼ぶべき社会性の存在があるのかも知れないと思ったのである。そして、それこそが人間の本質であり、人間を人間たらしめている基本にあるのではないかとも思ったのである。

 そして同時にこうした思いは両刃の剣でもあるように思えたのである。それは、「共感できる」ということの裏側には、「共感できない」という思いが常に存在していることに気づいたからである。つまりそれは、共感できるとする思いのグループ、つまり「共感社会」と、共感できないとする思いのグループ、仮に「対立社会」が同時に存在する社会になると思ったのである。そうしたとき、異質の存在が互いに共存し互いを共感することは、本質的にとても難しいのではないかと思ったのである。

 共感社会が多数であり、対立社会が少数であるとは限らないかもしれないが、結局は多数が共感社会を構成することになるのだろうから、答は同じである。そうしたとき、共感社会は対立社会を排除するようになるのではないだろうか。相手を差別し、区別し、排斥する、それこそが社会の平安なり安定を維持するのだと考えようが、そのためには悪の排除は必須なのだと思おうが、共感社会が共感こそが正しいと思っているのだとするなら、当然の行動である。恐らく共感社会はそれを正義と呼ぶのだろう。

 平和に共感するか、戦争に共感するかの問いかけは、いたるところ無数に存在する。自民党に共感するか、それとも共産党に共感するか、生活保護に共感するか、はたまた公共の福祉への投資に共感するか、核兵器開発に共感するか廃絶運動に共感するか、・・・。

 世の中に絶対正義というものは存在しないだろうと思っている。だからこそ「言論の自由」、「思想の自由」が基本的人権として承認されている世界を、私たちは作り上げてきたのだろう。

 だとするなら、人工知能の将来とこの「共感」という思いとは、どこでそうした対立の整合性を持たせていくべきなのだろうか。それとも「承認できる共感」、「良い共感」、「善たる共感」という概念が一方にあり、他方「悪となる共感」、「非難すべき共感」、「許されざる共感」というように、「共感」もまた区別しなければならないものなのだろうか。そんな混乱の中で、人口知能はどこまで「人類の共感」にサポートしていけるのだろうか。


                                     2018.8.15        佐々木利夫


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AIと共感力