ある女性国会議員が月刊誌に、「LGBT(性的少数者)の人は生産性が低い」と発言したことが、基本的人権を無視した暴言だとメディアもツィッター上でも炎上しているようである。

 彼女の主張はつまるところ「LGBTの彼ら彼女らは子供を作らない。それはつまり生産性がないことである。そんな人たちに皆さんの税金を投入することが果たしていいのかどうか?」というところにある。

 こうした考えに賛同するかどうか、私は人様々であっていいと思う。人類を生物の種の一つとして、種の保存、つまり子孫の永続性こそが生物としての使命であると考える人がいたって、それはそれで否定するまでのことではないだろう。

 私たちだって、つい数年前、数十年前まで、「女性は結婚して子供を産むものなのだ」と考えていたことは様々のしきたりや物語などからも明らかに分ることではないだろうか。女性を子どもを生む道具とまでは思わないにしても、男児を生んで家名を残すことは、大名からお百姓さんに至るまで、少なくとも日本社会では当たり前の常識だったし、「嫁して三年、子無きは去れ」と言われて、子供を産むことが結婚の前提としてあったこともまた、そうした思いを裏付けているように思える。

 そうした結婚への思いが、同性愛や子供を目的としない結婚観などへと次第に変貌しつつあるのが現代なのかもしれない。だから現在は、そうした思いへの過渡期にあるのかもしれない。だとするならなお更、LGBTも含めて様々な思いの人が混在している現在を承認するのが、私たち人間のとるべき道なのではないだろうか。

 この国会議員は、この発言に対する炎上が原因で殺害予告を受けるまでにまで及び、これに関する自らのツイートを全部削除したと聞いた。まさに炎上に伴う言論封殺である。

 彼女の意見に対しては、様々な識者も含めた論評が寄せられている。ただ、そこにメディアの編集の意図なり採択の姿勢なりがあるのかもしれないが、どうもメディア全体が「彼女の意見は偏見だ」とする思いに偏ってしまっているような気がしてならない。

 また、LGBTのことだけではないのだが、またそれを炎上と呼んでいいのかどうかも必ずしも分らないのだが、メディアを含めた言論封殺とも言うべき、ある発言に対する問答無用の圧力が多くなっているように思えてならない。新聞なのだから賛否両論を載せるべきだなどと頑なに思っているわけではない。新聞やテレビなどのメディアにだって、それぞれに自己主張があってしかるべきだろうと思うからである。

 それにしてもある意見に「問答無用で反対」とする立場をとることには、どこかメディアの性質として納得がいかないでいる。「私は反対だ」、「だから理屈抜きにそうした考えは間違いだ」、「だから私に反する意見はとにかく反対だ」とするような見解は、余りにも偏狭すぎるのではないだろうか。

 私のこうした思いは、メディアが日ごろ神託でもあるかのように唱えている、いわゆる「言論の自由」とも言うべき哲学を自ら否定しているのと同じように思えてならない。自分の意見を制限するような力に対しては、「言論の自由」の下ではどんな発言も許されるべきだと主張しておきながら、その同じ口で相手を損なわしめるどんな発言も「言論の自由」の名の下では理屈抜きに保護されるべきだと主張しているように思えるからである。

 それがメディアの揺るがない証拠を示した上での主張であるなら、それはそれで理解できないではない。ただ、その主張がときに読者への迎合に見えたり、世論に対するへつらいであるかのように思えるときがあり、それがどうにも気になって仕方がないのである。そしてそうした読者への迎合を、ことさら「読者の信頼」みたいな言い方で糊塗するような理屈付けが、私の曲がったへそを更に刺激するのである。

 反対意見にも反対の理由を表明させる機会を十分に与える、これこそが民主主義であり民主主義に支えられた正しい意味の言論の自由になるのではないだろうか。

 自説を支持するような見解を見つけたり、同調するような説に出会ったとき、その説を得たりとばかりに引用して自説を補強したいと思うことは、感情として自然なことかもしれない。ただその前に、自説のどこが正しいのか、反対する意見にはどのような間違いがあるのかなどを、冷静に読者に伝えることこそ、まさに言論の自由であり、そこにこそ公正で中立なメディアとしての役割があるのではないだろうか。

 メディアにもそれぞに傾向があることを否定するつもりはない。ただ少なくとも「言論の自由」こそはメディアの命なのであり、それは単に言い訳や保身のために利用されるものなのではなく、場合によっては自らを傷つける刃であっても守るべき命として、使わなければならない刃だと思うのである。

 「朝日新聞は公器なのだから、それにふさわしい言動を求めたい」などと言いたいのではない。言論の自由をことさらに言い募りながら、他方で自身の言論に反対するような意見を無視するような言動が、「言論の自由そのものの自殺」であり、「言論の自由を主張する資格に乏しいのではないか」と、ふと思ったのである。そして多くの読者から信頼され、毎日のこの記事を筆写するファンまでいるように聞いている「天声人語」コラムだからこそ、そうした役割をきちんと果たしてもらいたい、そんな風に思えたのである。

 「言論の自由」はもしかしたら両刃の剣なのかもしれない。ある言論を封鎖し無視するような言論も、同じ言論の自由という名の下で保護されるべきなのかもしれないからである。だからこそ、言論の自由とはその主張をする者が、敵対し反対する言論をも尊重する立場を守らなければ成立しないのではないかと思う。増してや言論の自由で守られているメディアだからこそ、一方的な自由の主張をするのではなく、一歩退いた両論併記、公正中立、誰にも迎合しない意志を守るという立場が必要となるのではないだろうか。


                                     2018.8.18        佐々木利夫


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出産と生産性