1 サクラモモコの死 

 今年の8月に53歳で作家(?)サクラモモコが死んだ。彼女のことは漫画「ちびまる子ちゃん」でしか知らないが、最近一冊だけ本を読んだことがある。

 
このメモにある読んだ本とは「ももこの おもしろ 健康手帳」(幻冬舎)である。特に気になって読んだわけではないのだが、その内容の余りにも健康志向が強烈だったので記憶している。ありとあらゆる健康にいいと言われることを実践しているその姿勢は、健康に気をつけているというようりは、このまんま健康志向を続けたらそのうち死んでしまうのではないかと思うほどの強烈さであった。そのせいかどうか知らないけれど、こんな若さで死んでしまったことに、どこかサプリメントに殺されたような気がしてこのメモを書いたようにな気がしている。

 2 大失敗 

NHKで報道するので、「大失敗の経験を視聴者から募集します」とのコマーシャルじみた放映を見た(2018.9.27)。そして思った。「大失敗」しても、人は生きていけるんだ。大失敗はもしかしたら、失敗から生まれたのかもしれない。そうでなければ、「大失敗」なのだから、人はその場で死ぬか、もしくはその大失敗を気にして自殺してしまったのではないかと思ったのである。
 「大失敗」をテーマとする番組を構成しようと思うこと、そしてそれに投稿しようとする人がいること自体、「大失敗」でも人は生きていける」と思ったのである。

 
人生はどこか失敗の連続であり、理不尽の連鎖の中に埋没しているのかもしれない。そして人は失敗することで強くなれるのかもしれない。そんな思いがこのメモになったように思える。

 3 風化する歴史

 東京オリンピックが2年後に迫り、東京都がその準備に追われている。そんな中に、江戸の長屋跡が見つかったという。コンクリートジャングルになったからなのかもしれないけれど、江戸そのものが文字通り土の中に埋もれているのである。
 物語としての歴史ではなく、歴史そのものがあたかもナイル工事や砂漠に埋もれたピラミッドのように、土に埋もれているのである。たかだか100年〜200年である。江戸が始まったのは徳川家康からだから、長く見たところで僅か400年の話である。それだけの間で、歴史そのものが土に埋もれるのである。

 
江戸遺跡の発見は、歴史がいかに早く社会から埋もれてしまうことを示している。キリストが生まれてから2000年、中国三千年の歴史など人は自らを誇るけれど、一万年も遡るなら、まだ縄文人、弥生人の時代であり、クロマニヨン人や北京原人などなど、人は地球の歴史の中ではまだ生まれたてのホヤホヤである。

 4 警報の対象者は誰なのか

 台風が近づいている。気象庁も含め、多くのメディアが風雨の警報を出している。台風の進路は「インターネットで確認して下さい。」、「無料アプリをダウンロードして確認してください。」などをくり返している。
 「おいおい、お前は誰に向かって警告しているのだ」。日本人の平均年齢はたとえば40歳くらいだとしても、災害で死亡したり避難したりしているのは、大体60歳を大きく超えた老人である。そんな老人に対してネット検索だの、マップ確認などと言ったところで、何になるのだろう。

 
スマホを使いこなせるのは若者である。そしてそういう人たちは、わざわざテレビでネット検索せよと警告されなくても、その方法をしっているのである。この頃の社会は、なんでもかんでも「ホームページでご確認ください」との注意が多すぎるような気がする。ネットも使えず、街頭放送は聞き取れず、移動手段も持たない、そんな老人にこそ具体的な避難指示と手助けが必要なのである。

 5 生き残ることの正義

 この言葉を、抽象的ながら別の言葉で言うと、「命は地球より重い」ではないだろうか。でも、本当にそうなんだと思う。私たちはこの言葉に「信仰」を抱いているのだろうか。


 生き残ることは何にも増して正義なのだと、言葉では思うけれど、本当にそうなんだろうかと、時に考え込むときがある。

 6 AEDへの義務

 AEDを使った心肺蘇生器が街中に広まっている。その操作を、すべての人が知っておくべきものなのだろうか。知らないことは罪なのだろうか。「AEDを知らなかったことのストレスになるなら、負担感を避けるように配慮する」ことが、総詐欺家を正当化するものなのだろうか。

 
駅にもスーパーにも、この機械は備え付けてある。まさに日夜私たちを脅迫しつづけているマシンである。私はその操作方法を知らない。そして知らないことは罪なのだろうか。使用方法を誤り、もしくは知ったかぶりの誤操作によって相手を救うことができなかったとしても、恐らく罪を問われることはないのかも知れない。それでも「誤操作により死亡した」という事実だけは存在し続けることになる。操作を知らないと言い訳しつつマシンに触らない不作為と、少しは知っていると言い訳しつつの作為による誤操作、人はどちらを選ぶのだろうか。不作為とは無視することであり、そして罪なのだろうか。


                            2018.11.23     佐々木利夫


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メモの後始末1

エッセイをを発表してから間もなく16年になり、発表累計も
1400本を超えるまでになっている。こうしたエッセイは
メモへの雑書や新聞の切抜きなどから始まることが多い。
 ただ、エッセイにまで至らなかったメモが机上に積みあがり、出番はまだかと尻を叩く。
 途中で少し整理してやらないとならない。それでここで紹介し、廃棄することとした。黄色文字がメモの部分である。