7 ペットのしつけ

 排泄、エサの食べ方などなど、人は当たり前にそれをしつけという。だが「ペットのしつけ」とは、一体何なのだろう。「人間社会に適合させるための訓練」なのだとするなら、それはペットとどう関連するのだろうか。犬の権利、猫の権利、ペットそのものに存在するであろう権利を、私はことさらに主張するつもりはない。

 ペットなのだから当たり前、という主張が聞こえてくるような気がする。でもペットはえさを与えてくれる飼い主を認識することはできても、「ペットとして飼い主に従う」ということまで認識できているのだろうか。

 8 時間の無駄゛

 (部活で「根性をつける」という作業が時間の無駄のように感じる)との新聞投稿(2018.9.14朝日新聞)の切り抜きを引用して、「時間の無駄」の意味を、私は身勝手に解釈しているのではないのだろうか。私はもしかしたらこの言葉の解釈に対して、自己矛盾に陥っているのではないのだろうか、とメモには書いてある。

 
時間の有効性についての解釈は、まさに自己判定だろう。旅行を時間の無駄と感じる人がいたっていいし、読書や絵を描くことだって同じである。社会的に正義と去れている「仕事に精を出す」ことだって、もしかしたら「時間の無駄」の範疇に入ることだってあるかもしれない。

 9 第三者による人事

 「官邸主導人事に外の目を」(2018.3.17、朝日新聞、法政大学教授、小黒一正)の投稿を切抜きして、それが果たしてどこまで公正なのだろうか、そして公正さと「人事の目的」とは常に一致するのだろうか。

 最近は政治や企業などの不祥事が起きると、やたらと「第三者委員会」みたいなものにその判断を委ねるような風潮が強い。なんとなく分るような気のしないでもないのだが、どこかで自己決着を避けているような無責任さも同時に感じてしまう。

 10 公営ギャンブル

 「地方競馬、競輪、オートレースを通じて 地域活性化に貢献」と題する、オッズパークの新聞広告(2018.3.4、朝日新聞)の切抜きを貼り付け、オッズパークという組織と地方自治体のつながりが不明確であると書く。

 
ギャンブルは公営以外では公式には認められていない。だから刑法に抵触することもない。最近、IRと称するカジノまがいの施設の設置が検討されている。ギャンブル依存症への対策は十分にとるとの見解が政府からなされているが、経済振興、地方の活性化などの美名に隠れた経済政策そのものに、私はどこか胡散臭いものを感じられてならない。

 11 先生の言葉

 「先生の言葉で僕は夢を持てた」(2018.5.4、朝日新聞、山口県、中学生)の新聞投稿に寄せたものである。他の生徒に馬鹿にされて笑われたのに、「君は他人を笑わせることができる」と誉めてくれた先生への感謝の投稿である。この生徒は「誉められて嬉しかった」、「おだてられて木に登った」、のだろうか。


 単純に「サルもおだてりゃ木に登る」式の発想で、先生はこの生徒に向かったのだろうか。先生と生徒の関係は、「互いに通じる」ことが基本にあるのではないかと思ったのだが、それ以上のエッセイに発展しなかったことが残念である。

 12 証拠なき認定

 @ シリアでの毒ガス兵器使用
 A 事務次官のセクハラ疑惑


 二例しか掲げていないが、ネットでの炎上なども含めて、私たちは観念で物事を認定しようとしすぎるような気がする。あらゆる認定に、「事実の認定は証拠による」(刑事訴訟法317条)ほどの厳格性を求めようとは思わないけれど、少なくとも情緒や感情に流されるような認定の仕方は、どこか誤りである。選挙も、戦争も、政治も、そして時には正義も、「思い」や「思惑」などに流されて社会を支配していっているように思えてならない。

 13 恐怖と欲望

 資本主義は、「もっと、もっと」を際限なく生み出す。もしかしたら人間は、「恐怖と欲望」でできているのかもしれない。

 資本主義は欲望が大きく支配していることは、どことなく感じていた。しかしその欲望とは、「失ったらどうする」、「できなくなったらどうする」などの「喪失への恐怖」がその背景にあるように思う。私たちは常に恐怖に追いかけられて、今を生きているのかもしれない。走り続けることが人生なのだろうか。

 14 思考はいつもジグザグに進む

 「哲学者どうしの挨拶は、『どうぞ、ごゆっくり』であるべきだろう。ヴイトゲンシュタイン。生き方、世界の見方を変えるには、これまで身につけてきた思考の初期設定を書き換える必要がある。・・・思考はいつもジグザグに進む。『反哲学的断章』から(2018.3.10、朝日新聞、折々のことば)。

 
私の好きな言葉に「逆艪を漕ぐ」がある。時に流れに反して進むことや、当たり前と思っていることに「チョット待って」と止まってみることである。人は大きな流れにそのまま身を委ね、その中に埋没してしまうことがある。社会に真っ向から歯向かうのではなくとも、少なくともジグザグに進む程度の、そんなゆとりのある生活にどこか憧れる。


                            2018.11.25     佐々木利夫


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メモの後始末2

エッセイをを発表してから間もなく16年になり、発表累計も
1400本を超えるまでになっている。こうしたエッセイは
メモへの雑書や新聞の切抜きなどから始まることが多い。
 ただ、エッセイにまで至らなかったメモが机上に積みあがり、
出番はまだかと尻を叩く。
 途中で少し整理してやらないとならない。それでここで紹介し、
廃棄することとした。黄色文字がメモの部分である。