15 自説への誘導 

 データを基に理論を展開することは何よりも説得力のあることであり、またその正しさを訴える大切なことである。ただそのデータを曲げて使うことは、その主張を自説へ誘導するための方便になってしまい、逆にその説が信頼のおけないものになってしまう。
 この投稿(2018.7.7、朝日新聞、特集「私の視点」、厚労省の医師需要推計 週50時間労働を前提に、弁護士 斎藤裕)に私は、どことない違和感を覚えてしまった。医師の需給が2084年頃には均衡するとの厚労省の試算に対する弁護士からの反論である。・・・この反論の理屈がよく分からないのである。

 
弁護士の反論は、確かにデータに基づくものである。だがそのテータ及び解釈は、一般の読者が理解できるものであるべきだろう。その解釈が独断と思われるような場合は、その反論がまるで意味のないものになってしまう。そしてそれは逆効果になるように思えるのである。

 16 ユーチューバーと名乗ること

 ユーチューブに投稿し、それを視聴する者が多い場合、一定割合の収入があるのだという。それで、この投稿を繰りかえすことで生涯の生活の資とする者がいるのだそうである。
 ・もう職業になっているのだうか。
 ・それはもう職業なのだろうか。
 ・それでいいのだろうか。
 ・肩書きの必要性

 
何を職業というのかは難しいだろうとは思う。安定した収入が保障されるのなら、それを職業と呼んでもいいのかもしれない。例えば一昔前に、コンピュータープログラマーが職業として認識されてはいなかっただろう。また、現代では蹄鉄打ちや駕籠かきや下駄の鼻緒すげなどを職業として理解することは難しい。それを分った上で、老人の繰言かもしれないけれど、ユーチューバーという名称を職業と呼ぶことにはどうしても抵抗感がある。

 17 弟の背中

 ダウン症で支援事業所へ仕事に通う弟に対する応援歌とも言うべき投稿があった(2018.6.18、朝日新聞、「ひととき」、「弟の背中 たくましい」、福島県 パート女性、56歳)。
 家族や施設の職員などが、一生懸命助けてくれる。だが「支援する姿勢」そのものが、差別になっているのではないだろうか。無意識の優しさがそのまま自覚なき差別になっていることはないのか。何のこだわりもない無意識の優しさが、そのまま差別、区別になっている。果たして「支援する」とは何なのだろうか。


 私たちは多くの場面で、自らの優しさを自覚する。そこには善意しかないとの意識すらある。ボランティアに募金箱への寄付に、体の不自由な乗客に電車で座席を譲ることや車椅子の段差を援助すること、などなど、そこに打算は一つもない。それでも、そんな気持ちの奥に「私は障害者でなくて良かった」とか、「私は助ける側にいる」などの気持ちがどこかにあるのではないだろうか。助ける側の優越みたいなものが、私を苦しめる。

 18 忖度の論理

 「忖度されたものは責任をとるべきだ」とする投稿があった。(2018.3.21、朝日新聞、「声」、「忖度された者に責任はないのか」、神奈川県、社会福祉法人理事長、男76歳)。
 それが分らないではないが、その前提が「職員が忖度していると分っていながら、・・・知りながら、・・・勝手にされた、・・・」との理由で、忖度全部に対して責任を被せる内容には、どうしても理解できないものが残る。

 
彼の論述は忖度の全否定である。まあこの頃の国会は、首相の友人が学園の獣医学部を新設するにあたって、首相の無言の圧力があったかなかったか、つまり側近や地方自治体の忖度の有無について議論されていたことが前提にある。
 だが私たちの日常は、親子や親族に限らず、職場や隣人との関係などにおいても、「忖度する」ことを「相手の気持ちを推し量る」という意味に理解するなら、「忖度だらけ」になっているのではないだろうか。忖度はもしかしたら、日本だけに限らず世界の人類にとっての潤滑油になっているのではないだろうか。

 19 家電の歴史は私の歴史

 家電100年の進化(2018.2.25、朝日新聞、「家電の世紀 次の未来は」)。三種の神器からAIの時代へ。


 この記事の最初は二股ソケット、鉱石ラジオから始まっている。そしてアイロン、掃除機と続き、パソコン、スマホ、更にAIへとつながっている。スタート時点は1920年となっており、私の生まれたのが1940年1月だから、その頃の電気製品は蛍光灯になっている。

 今後、家電がどのように変化していくのか、まるで予想もつかない。既に家電の時代を過ぎたと言われているくらい、時代は情報・通信へと移り変わってきている。こうして過去を振り返ってみると、私の生きてきた時代というのは、まさに電化製品の変化の時代であり、そしてその変化はそろそろ終焉に近づいているようにも思えてくる。

 20 昭和天皇と私

 天覧試合、相撲、国技館
 結婚式、パレード、若かった、共に老いた
 夕張で、小学生、紙の旗を振った


 私と昭和天皇とは、もちろん何の関係もない。それでも昭和天皇が昭和63年に崩御して既に30年が過ぎようとしている。そして来年は当時皇太子であった今上天皇が平成31年4月をもって退位することになった。開かれた皇室みたいなイメージを大切にしたいのか、この天皇も台風や地震などの災害を受けた日本各地を回り、テレビにその姿を見る機会が多かった。
 ところで私が昭和天皇を見たのは昭和47年頃、東京で一年間の本科研修を受けていた時だったと思う。一度くらいは生の相撲を見たいと入った国技館で、たまたま天覧試合にぶっかった時の記憶である。そして私が小学生のとき、夕張という炭鉱町に行幸に来た昭和天皇を、街頭で小さな紙の旗を振って見送ったことも記憶に残っている。昭和20年代のことであろうか。そして最近テレビでよく見る今上天皇の老いた姿に、私たち夫婦も共にと老いたことに気づくのである。今上天皇の結婚式を、私は税務職員として就職したその年にテレビで見ていたのであった。


                            2018.11.29     佐々木利夫


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メモの後始末3

エッセイをを発表してから間もなく16年になり、発表累計も
1400本を超えるまでになっている。こうしたエッセイは
メモへの雑書や新聞の切抜きなどから始まることが多い。
 ただ、エッセイにまで至らなかったメモが机上に積みあがり、出番はまだかと尻を叩く。
 途中で少し整理してやらないとならない。それでここで紹介し、廃棄することとした。黄色文字がメモの部分である。