こんな新聞投稿を読んで、一体民意とは何を意味しているのか分らなくなった。

 「民意を国会に ネット使えば?」(2030.7.4 朝日、無職67歳男性)。「延長国会で、与党多数の力で全ての議案を決着させようとする現内閣の姿勢が目に付きます。

 こうした感覚は良く分る。ある法案の成立に反対する野党が、議長や委員長や総理大臣などの不信任決議を出すしか反対の手段がなく、それも結局「提出された不信任案が多数決で否決される」という形で何の効果も得られない事実が最近は特に目に付く。

 かつては「牛歩戦術」と呼ばれる、一人一人が自らの反対票を投じる時間をまさに牛の歩みのごとくゆったりと時間をかけ、深夜国会、二日がかりの投票などの時間稼ぎをしたことがあった。多数決で国会の運営がなされる以上、議席数の多い与党の多数意見に結果が左右されることは避けられない。そのため、時間を稼ぐことで成立を遅らせようとする戦術である。

 国会の運営が投票数の多寡によって左右されることは、投稿者も「国政選挙で多数議席を得たのだから致し方ない、とも言えます」と書いているので、そこのところはきちんと理解しているようである。だからこそ自民党の提出する様々な立法案に反対する野党は、単なる議決では敗退するので「国会の開催期間が決められている」というところに視点を当て、時間切れを狙うしか方法がないと判断したのだろう。それが議論の内容はともあれ「審議の引き延ばし」という手段へとつながったものと考えられる。

 確かに今国会における自民党の野党無視の姿勢には、野党として憤懣やるかたないものがあるだろう。加計学園や森友問題は結局中途半端な状態に終始し、野党が反対する多くの立法、例えば「働き方改革法案」や一票の格差是正のための「参議院議員の定数増法案」などが、委員会では強行採決がなされそのまま国会に上程されて成立するといったパターンが多く見られるからである。

 現在もめている、IRリゾート・カジノ法案も、国会の会期が明後日までとなっている現在、野党には最後の手段として内閣不信任案の提出しかないだろう。そしてその不信任案は多数決により僅か数時間で国会で否決され、次いでカジノ法案が上程されて同じく賛成多数で可決されることだろう。

 一般にそれらは「強行裁決」と呼ばれ、これまでにも数多い法案や予算案などがそうした方法で成立した例がある。野党はそうした方法を、審議を尽くしていない暴挙だと叫び、与党は十分に尽くした上での採決だと反論する。

 確かに民主主義の望ましい点は、「少数良く多数を説得する」ところにある。審議を重ねることで、賛成者の意見を変えさせたり、反対者を説得する可能があるからである。だからそうした利点が、審議に時間を十分かけることの根拠にもなっている。だが、その「審議に時間をかける」ことは説得できるまで無制限な審議を続けることを意味するものではない。賛成・反対双方の意見なり疑問点に耳を傾けることはルールの一つではあるけれど、それは「100%合意できない限り、無制限に審議を続けること」を意味しているわけではない。

 そんなルールを認めてしまったら、たった一人の反対意見があるだけで、審議そのものを進めることができないことを意味する。審議が進まないとは、その法案が最終的に成立しない、つまり否決されたと同様の効果をもたらすことになるからである。だとするなら、どこかで審議を打ち切り、採決するという段階に進まなければならない。

 そしてその次に来る民主主義のルールが、多数決である。憲法改正のように「国会議員の三分の二以上による発議が必要」とされるような規定がない以上、その多数決とは過半数、つまり賛成・反対のいずれの意見が多いかで決めることをいう。

 私たちが物事を決める基本的なルールは、ここにある。過半数で決断がなされる、というルールである。そうしたルールが常に正しいとの保障があるわけではない。民主主義とて、それは多数ある決断の選択肢の一つでしかないからである。国王に選択を委ねる方法もあれば、専制君主や大統領の判断に決定を委ねる方法もあるだろう。また、国民全員による、いわゆる国民投票・直接投票により決定するという手法だってあるだろう。

 ただ私たちは、「政治における決断」というものを国民投票という手法で゚はなく、選挙で選んだ国会議員による国会での多数決による決断、つまり間接投票というルールに委ねたのである。そうしたルールが「絶対正義」なのかどうかと問われるなら、恐らく違うだろうとは思っている。だが、私たちはそれに代わる新しいルールをまだ持ち合わせていないのである。

 新聞に投稿した男性はこうした強行採決にうんざりして、「・・・賛成できません。国民のためになるとは思えないからです。・・・そこで最新の民意を国会に届ける仕組みは実現できないかと思いました。例えばインターネットを使い、できれば選挙区ごとに・・・世論調査結果を出す。・・・ネット社会ならではの、有権者の国政参システムの構築は可能ではないでしょうか。・・・」と提案する。

 彼の意見が分らないというのではない。インターネットを使えない有権者をどうするかとか、電子操作などによる不正をどうするかなど、技術的な問題を取り上げたいのではない。費用の問題はともあれ、各家庭に国政投票用の押しボタンを設置して、国会に委ねている現在の様々な決断を家庭の投票ボタンに委ねることだって可能であろう。

 だが私が言いたいのは、少なくとも投稿者が、国会議員制度を無視しようとしていることについてである。彼は、選挙によって国会議員を選び、その国会議員で構成された国会に国政の判断を委ねるという方法を否定しようとしているのである。それはつまり、彼は選挙は「国民の意思、つまり民意を反映していない」かもしくは、「少なくとも選挙時点と現在とでは民意が異なっている」と主張しているのである。

 それは、参議院議員を三年に一度半数を選挙で入れ替える手法や衆議院議員の任期四年(実質は二年前後になっているが)という選挙期間が、民意を反映するには長すぎるとの主張であろう。

 ネットによる国民投票こそが、リアルタイムの民意を示すものだという意見は、それなり分らないではない。でもその意見は、国会議員による国政の判断を否定するということなのだろうか。それとも国民の意思は移ろいやすく、二年や三年も経つと、選挙で示した民意は陳腐化してしまうとでも言いたいのだろうか。

 それともそれとも、投稿者には「私と反対の意見を持つ自民党を選んだ国民はバカだ」とする思いがあり、「ネット投票を理解できる者こそが国民であり正しい民意を示すものだ」と主張したいのだろうか。

 民主主義そのものが批判される時代である。何が正しいのか。どうすれば民意が国政に反映されるのか。反映された民意に反対のとき、反対者はどう行動すればいいのか。そもそも民意とは多数決なのか。もしかしたら、一億人の有権者それぞれがそれぞれ異なった民意を持っているのではないのか。それを集約するということ自体が不遜な思いなのではないのか。民意は果たして集約できるものなのか、集約していいものなのだろうか、集約できないとしたときそれは無法状態を呼びこむものなのだろうか。


                                     2018.7.20        佐々木利夫


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民意の意味