親しい者の死に当たって人は、「死に目に会えた」とか、「看取ることができた」と語ることが多い。そしてそれができたことに対して、あたかも死に行く人に対してある種の責任を果たしたような感触を秘めて語ることがある。それは時に、親しい者の臨終に立ち会うことで何かしらの安心感が得られ、ある種の責務から解放されるかのようである。そして看取ることが、あたかも己に課された義務であるかのように語ることさえある。

 その「臨終のとき」というのが、まさに「死者との交流の最後のとき」というのなら分らないではない。死にゆく者に対して、生前の様々を感謝し永訣の言葉を交わす、そして同時に死にゆく者は残る者に対して生前の様々を感謝し今後の様々を頼むことが無意味だとは思わない。たとえそれが、実効の伴わない、単なる言葉だけのことだとしてもである。

 だがそれは、永訣者との意志の疎通があってこそ意味を持つのではないかと思うのである。例えば臨終に当たって死にゆく者が残る者に対して生前の様々を感謝する、または今後の後始末の様々を要請するなど、死者と生者とが互いの意志を交流できる最後の場面として「看取り」があるのなら、そうした交流に否やを言うつもりはない。

 ただ現実の意味での「看取り」には、私には単なる「死に対する立会い」の意味しかないように思えてならない。私たちが日常使っている「看取り」とは、不可逆的な死の瞬間に、単に「生者が間に合った」、つまり立ち会うことができたか否かだけの意味しか持っていないような気がしてならないのである。

 そこには死者と生者との交流も対話もなく、単に「死の瞬間に立ち会う」という、時間的な意味だけしか存在していないように思えるのである。もちろん例外がないとは言えないだろう。生前の様々に感謝し、そして最後の呼吸を終える、そんな臨終だってないとは言えないとは思う。だが私には、死の瞬間まで意識がはっきりしていて、親しい人と語らいや交流のできるような場面が、そんなに多いとは思えないのである。

 それが証拠には、「看取り」の意味を「死にゆく者と交流した」ことの意味を含めて語る話など聞いたことがないからである。看取りの意味を、多くの人は「死の瞬間に立ち会うことができた」という、ただそれだけの意味しか持たせていないように思えてならない。

 そして思うのである。「看取り」とは生者、つまり生き残る者にとってのみ意味を持つ言葉なのではないかと。そこに少なくとも死者の居場所はない、死者の意志もない、単に「死にゆく」という時間の経過だけしか存在していないのである。死者の登場は、単に「生者の目の前で逝く」だけのために必要なのである。

 だとするなら、「看取り」とは一体何なのだろうか。多くのイメージは、死者が親しい人に囲まれて安心して息を引き取る場面を想像する。だから、「独りで死ぬのは、さぞ寂しいだろう」、そんな風に私たちは死者の思いを投影する。そうした思いが、最近の独居老人の知られざる死を表す「孤独死」という言葉にも表れているのだと思う。

 ところで「看取りに対する義務感」みたいな思いについて先に述べたが、これは単に「孤独死に対する思い」、「真っ暗い部屋の中で誰にも気づかれずに死んでいく」、そうした場面だけに限るものではない。例えば病院の明るい病室で、医師や多くの看護婦に囲まれての死であっても、それは「いわゆる看取り」とは言わないのである。看取るのは、多くの場合親族が立会う場面に限られているのである。そして親族もそれが看取りだと思っているのである。

 そうなのである。看取りに死にゆく者は無関係なのである。「親族である生者」だけに限定された思いなのである。だから死の瞬間に親族が間に合うことだけが、「看取ったこと」の要件になるのである。

 だとするなら、看取りとは「生者の一方的な意志」だということになる。看取りのできた事に対する安堵感や責任からの開放感がどこから来ているのか、必ずしも私に理解できているわけではない。交流ができたことを意味するのであれば、仮に死の瞬間に間に合ったとしても、「会話できなかった、見つめ合って頷くことさえしてくれなかった、手を握り返すこともなかった」ことを、後悔することだろう。

 だが、現実の看取りから、そんな後悔の言葉を聞くことはない。「死の瞬間に間に合った」ことだけに人は満足し、それだけで例えば「親を看取った」と自らを納得させるのである。看取りとは、もしかしたら単なる生者の自己満足なのかもしれない。そしてその自己満足は、己自身の満足だけでなく、己以外の他の生者に対する義理、言い訳、優越感、いいふりこき・・・、そんな俗世の垢を背負った世知辛い思いなのかもしれない。


                                     2018.6.22        佐々木利夫


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看取りの意味