無限という言葉は日常でも使うことがあるけれど、どこまで数量的な意味を持たせているかは疑問である。使う例としては、無限に大きいこと、もしくは多いこと、つまり無限大を意識していることが多いような気がしている。

 その無限大とは、無限に存在するという意味よりももっと単純に、「量ることができないほど大きい」、「数え切れないほど多い」という程度の感触で言われることが多いのではないだろうか。

 ところで、現実の無限という表現は、このように感覚的に「数え切れない」というだけであって、本質的な意味で無限であるとは限らない。私たちが日常的に使う無限とは、単に「数えるのが面倒くさいから」という程度の範囲に納まるものであって、その実体は有限であることが多いのである。

 例えば海岸の砂粒の数、私たちはこともなげに「無限」を想像するけれど、地球上の砂粒のみならず、太陽系や銀河系、他の宇宙まで含めたとしても、膨大であることは分るけれど、無限に存在しているわけではない。つまり、砂粒は有限個なのである。数で示せるのである。だからといって、「それではその数を示せ」と言われたところで、それはできないだろう。

 どの程度まで細かく砕かれた岩を砂と呼ぶのか、その定義は難しい。つまり、同じ岩を砕いたものだとしても、粉と呼べるまでに細かくするか、それとも小石の範囲に止めるかは、これまた砂と感じる程度の私たちの感触によらざるを得ないからである。それでもたとえ粉のように細かくしたところで、その数量を具体的な数として表現する必要がどこまであるかの意味も含めて、その粒が有限であることは論を待たない。

 つまり砂粒は、数として計測する必要性はともあれ、有限個で示すことかできるのである。米10キロを私たちはスーパーでの取引単位として使ってはいるけれど、袋の中の米粒が無限であると考えているわけではない。単に「粒で表現する必要性を感じない」だけにしか過ぎないからである。粒として表したほうが便利ならば、例えばダイヤモンドの粒一つ一つを、カラットとして表現する方法を選んだところで何の問題もないからである。

 こんな風に考えてくると、現実に私たちは無限であることを厳密な意味で使っているわけではないことに気づく。有限だけれど数で示す必要がなく、単に「たくさん」、「星の数ほどいっぱい」だけのことに、便宜的に無限という表現を使っているに過ぎないのである。
 これは、正反対の意味での「無限小」についても同様である。どこまで小さくしたところで、それよりも更に小さい存在は、少なくとも観念的には考えられるからである。

 では無限大は現実には存在しないのかと言われると、決してそんなことはない。地球を一方向に歩くとき、始発点は終着点であって、その終着を超えてまだ無限に歩き続けることができることになる。二次元、つまり平面として考えていた地球が、現実は三次元つまり球であった以上、その地表に限界はなく無限に続いていることになる。

 また宇宙も無限だと言われている。その具体的な感触を実感することはできないけれど、三次元世界しか理解できない私たちにとって、立体世界もまた無限の一部なのである。ただそれはあくまでも観念の世界であって、無限を体験したり理解したりすることは少なくとも私にはできない。

 落語に「じゅげむ」という噺がある。「寿限無、寿限無、五劫のすりきれ・・・」で始まる長い名前をつけられた子どもにまつわる物語である。この三番目の言葉である「五劫のすりきれ」は、このような意味だと言われている。

 天女が三千年に一度天から下界におりてきて、着ている羽衣の袖で大きな岩をひとひら撫でる、また次の三千年後に再び下界に下りてきてもう一度ひらりと撫でる。そしてやがてその岩がすりきれてなくなってしまう。その期間を一劫(いっこう)と呼ぶのだだそうである。だからその岩が五回磨り減るまでの期間を五劫と言うのである。

 まさに無限とも言える期間である。私たちの感覚でその期間を無限と呼んだところで、現実の生活には何の支障もないだろう。無限と五劫との時間の長さの違いをそれほど意識し区別する必要はないからである。

 だがその五劫という期間が気の遠くなるくらい長いものだったとしても、無限とは異なることは明らかである。十劫は五劫の二倍の時間を示しているのだし、場合によっては数億劫、なんなら無限劫という表現だって可能だからである。

 書いていて、私はここで何を言おうとしているのか分らなくなってきた。このエッセイの結末というか、目的が分らなくなってきたのである。慣習的な意味での無限と、数学的な意味での無限が異なることを言いたいのか、そこに違いがあったところでそれで何か不都合なことかあるのか、そんなことも分らなくなってきた。

 円周率が無限に続くことは証明されたという。√2などの平方根もまた無理数として終わりのない数列であるという。三角関数や対数などなど、数学の世界に無限は当たり前に存在している。三分の一を少数で表すと0.3333・・・と無限に3が続くことは誰にも理解できる。だがそれは理解なのか、それとも観念なのか、そんなことすら分らなくなってきている。

 無限とは頭の中で考えていることに過ぎないのか、それとも現実に存在しているのか。宇宙の果ては無限だと言われている。だとするなら、無限は私たちの世界に具体的に存在していることになる。だがそんなことが分っていると思っていても、無限そのものを理解しているとは思えない。「不存在の無限」を単に存在していると錯覚しているだけなのかもしれない。

 例えば無限大と無限大の二倍とは比較できるのか。自然数が無限であることは理解できるがその無限と、例えば1と2の間にあるすべての小数とはどちらが多いのか。0.333・・・を0.333・・・で割るような無限を無限で割ることはどこまで無意味なのか。無限かける無限の意味、三分の一x3は1になるけれど、0.3333・・・x3の答は0.999・・・と9が無限に続くだけになり決して1にはならないのではないかなどなど、無限を考えるとき、私はいつも混乱してしまうのである。


                                     2018.8.9        佐々木利夫


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無限大と無限小