数日前の民放テレビで、ボクシングクラブに所属する大学1年生の一日を追いかける番組を放送していた。とりあえず今話題になっている日大騒動(内容については後述する)とは無関係な番組だったのだが、途中で体育系クラブ特有というべきなのかもしれないが、日本における年功序列的な風習の根っこにあるよう感じを受け、この両者がどこかでつながっているように思ったのである。

 ボクシングクラブに在籍する大学生の話を続けよう。この学生の朝練(部活の早朝練習のこと)への出席を、番組は中継していた。朝の五時半頃から練習は始まるらしく、五時には起きて練習場へ向かうのだそうである。特にボクシングに特化した練習ではないようで、いわゆる駆けっこなど基礎体力をつけるための練習らしい。

 集合時間に合わせて部員全員が集合する。そこまではとくに違和感なく見ていた。ただ、この集合に当たって語った一年生の言葉が気になったのである。

 それは、「先輩を待たせることはしない」ために、一年生の部員全員が集合時間より早めに集まり、いわゆる「一年生の部員全員が、あらかじめ集合時間には待機して先輩を待っている」という話であった。

 そして確かに一年生は先に集合しており、先輩がそのあと三々五々と集まってくる様子が映し出された。特にその点について、一年生からも先輩からも、また中継しているテレビのナレーターというかアナウンサーからも何のコメントもなく、番組は淡々と進んでいった。

 でも私は、こんな当たり前と感じられるような習慣に、日本におけるスポーツの年功序列みたいな階級意識、そしてそれを少しも抵抗なく受け止めている先輩後輩それぞれの意識に、奇妙な納得と不自然さとを同時に感じたのである。現在多方面で話題になっている、いわゆる「忖度」という風習の根強さを感じてしまったのである。

 説明が遅くなったが、日大騒動とは日本大学のアメリカンフットボールクラブに所属する選手が、相手チームの選手に対して違法なタックルを仕掛けた問題である。テレビ中継はもとより、スマホによる動画の撮影など、今はあらゆる場面が撮影されている状況下にあり、その余りにもルール無視の状況がこれらによって明らかになった。問題はそのルール無視の行為が加害選手の責任だけにあるのなら、ここまで問題になることはなかっただろう。

 加害選手がテレビでの謝罪会見の場で、監督から言われた「クォーターバックをつぶせ」という指示が、「怪我をさせろ」、「試合にでられないようにしろ」との命令と感じたとの発言から、日大アメフト部全体の問題、監督やコーチの責任、更には日大という組織そのものの問題にまで発展することになった事件である。

 ことの真相は、日大が第三者委員会を設置して調査するとしているので、いずれ時間を置いて明らかになることだとは思う。ただ、いかにもその背景に、「目上の者の指示には無批判に従う」という、日本らしさというか日本人特有の思いが感じられてならなかったのである。

 折も折、国会は「森友・加計学園問題」で与野党が真っ向から組み合っており、ここにも似たようなパターンが感じられてならなかった。森友問題とは現首相の妻が名誉校長になることで、学校新設の許認可や国の所有する土地で設置場所の売却価格などをめぐる行政の手続が歪められたのではないかとする疑惑であった。また他方加計問題とは加計学園獣医学部の新設に当たって、安倍総理が学園理事長と懇意であることから、そこにも特区制度を利用した学園新設を巡る癒着があったのではないかとの疑惑が問題とされているものである。

 そしていずれも行政の許認可などが深く関わっているいることから、そこに行政組織による政府(総理大臣)への便宜供与、つまり「忖度」があったのではないかとの疑惑が持たれているものである。

 朝練にあたって、集合時間よりも早く出席して先輩よりも先に待っているという心意気というものを、特に日大問題や国会における「森友・加計問題」にからめる必要はないと思う。ただそこに、上位機関に対する配慮、先輩の気持ちへの忖度、そんな思いが共通しているように思えたのである。

 忖度は控え目には礼儀の部類に入るものだろう。それは、忖度する者が相手に気づかれずに、さりげなく気配りするところに意味があったような気がする。

 それが「気づかれない程度の配慮」を超えて、逆に「相手にこちら側の配慮に気づいてほしい」と思うところまで進んでしまうことから、さりげなさの破綻がはじまる。

 そしてその配慮は、始めこそ配慮する側の一方的かつさりげなさにあった行為であったにもかかわらず、その超えた時点から相手側の無意識な心地よさへの馴れ、そして甘え、更にはそうされることへの当然な思いへとエスカレートしていくのである。

 忖度は、まさにさりげない心配りであったはずなのに、それがいつの間にか相手の要求に対する従順へと変化していくのである。そうした互いの思いは、まさに心配りの範囲を超えて、支配と従順へと変節していくことになる。しかも、その行為が「忖度」という形式で行われるときは、相手側の要求は間接的でありながら命令と同視されるまでに変節しているのである。

 「しなければならない行為」にまで変化してしまった「忖度」は、事実上「命令・支配」と「服従」の関係へと変わってしまうのである。

 ボクシングクラブの朝練における、「先輩より先に会場に到着する」という行為は後輩の一種の「忖度」だと
思う。そこに「先輩より早く会場へ到着しなければならない」という義務感はないのかもしれない。しかし、それが忖度の範囲を超えて、もし仮に「後輩が先輩より遅れて到着したとき」に何らかの叱責やペナルティを、たとえ間接的にでもせよ受けるようなことが起きるようになると、その意味が義務へと逆転する。

 そんなこんなが、日大のアメフトチームにおける「監督・コーチと部員」の関係にまで及んでいるような気がしたのである。「監督の思い」を忖度するのは部員の絶対的な義務になり、「監督の思惑への忖度」が命令と服従にまで定型化していく、こんな悪弊がアメフトに限らず、政治でも企業でも組織がもつ避けられない慣習になりつつあるような気がする。そしてそれは時に自己増殖していくのである。


                                     2018.6.5        佐々木利夫


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日大騒動と忖度