脳死とは生への不可逆になった時点を示す言葉である。だからこそ、脳死は死の判定としてその正当性を主張できるのである。たとえその主張が、単に臓器移植という特殊な目的に対する正当性を求めることだけに使われるとしてもである。脳死が「臓器移植」という特殊な目的だけのためにその存在意義があるのだとしても、それが「死の一種」であることを公的に承認するための手続用語である。
だからこそ、「脳死の判定」には様々な手続や要件や検査が義務付けられている。それはまさしく不可逆性を公的に立証するための手続要件として位置づけられているからである。
だが、ここで私たちが常識的に理解している死の意味を、仮に「絶対死」と名づけてしまうと、死もまた単なる定義の問題になってしまうことに気づく。つまり、死もまた連続の罠の中に存在する、無限とも言える過渡的な経過の中の特定した時点を示す用語だと言うことが分ってくる。
私たちは死を一義的なもの、つまり「絶対死」こそが死であると考えがちである。だが死といえども「程度の問題」なのではないか、という疑問を避けて通ることはできない。
私たちは通常医師による死の判定をもって、確定的な死だと理解している。医師が病院にしろ患者の自宅にしろ、相手の枕元で手首を握って脈を確認し、取り囲んでいる親族に「ご臨終です。○時○○分」と宣言する。そしてその時をもって対象とされた者が「死んだのだ」のだと周囲が納得し、そこから死を巡る公的・私的な様々が開始する。
だが考えてみると、その死は医師が宣言したから死になったのではない。私たちは、医師が宣言する以前から、抽象的ではあるけれど死という概念を知っていたはずである。
医師のいない時代は当たり前に存在していたし、現代だって医師が不在の地域や環境は社会に数多く存在している。そうした中でも、人は医師の存在とは無関係に絶え間なく死んでいったのである。死は医師と共にやってきたのではない。医師とは無関係に死は昔から存在していたのである。現代は死の判定の役目を、とりあえず医師など特定の者に委ねる法制度を採用しているだけにしか過ぎないのである。
さてここで、改めて「絶対死」というものを考えてみよう。絶対死というものが存在するかと問われると、多くの人はそれを認めるにやぶさかではないだろう。健全な生者の命を100、死者の命を0とし、その0を以って絶対死と呼ぶのである。死者の蘇生、つまり0からプラスへの復活などは、SFやホラー映画のゾンビでもあるまいし、恐らくほとんどの人が望むことがあったとしても決して信じてはいないだろう。
それにもかかわらず、マンモスの化石の中からDNAの抽出ができたとか、古代の人骨から女性の祖先を辿ることのできる「ミトコンドリアDNA」が見つかったなどの話を聞くにつけ、私の絶対死感は少し揺れるのである。映画ジュラシックパークの恐竜再現を信じているわけではないが、クローン技術による人体再生みたいな思いが、どこかで死の定義を私の内心で揺らすのである。
それは別に数万年前の化石の話に限るものではない。医師が死と判定したその死者の、判定直後のDNAを採取して再生医療に活用したらどうなるのか、生前に肉体を冷凍保存しておいて治療技術が見つかるまで待つような手法と死との関係、生きている間に脳細胞からその死者の記憶の全部を取り出して保存することは可能かなどを考えるだけで、いわゆる「絶対死」に対する思いが揺れるのである。
そこまで考えなくても、生→脳死→絶対死の流れを考えるだけで、脳死は死かというテーマに対する避けがたい疑問が発生する。死がその個人の全部の細胞死を意味するものでないことくらい、理解している。心停止、呼吸停止があっても、まだ爪や髪は伸びるというし角膜は他者へ移植することは可能だと聞いたことがある。恐らく、骨や皮膚や内蔵の一部などだって、利用可能な臓器などはあるのではないだろうか。
だが、私たちは心停止と呼吸停止という現象の中で、体験的にこの二つの基準を死の判定として承認してきた。細胞死ではないにしても、その二つの基準を満たすだけで絶対死なのだと理解してきたのである。そこへ突然表れた脳死という新しい死が、そうした私たちの思いを打ち砕くことになった。
医学の進歩が今後とのような発達を遂げていくのか、私にはまるで理解できていない。しかし、絶対死への思いは、人々の心に「納得できる確信」として存在しているはずである。だが脳死は僅かにしろ絶対死の少し手前にある。そして脳死の判定は、少なくとも「現在の医療技術の下では」という条件を付した不可逆の人工的な判定でしかない。
つまり、脳死を治療できる時代や技術が間もなくやってくるのではないかということである。絶対死が不可逆であることに、何の異論もない。また脳死が絶対死に限りなく近いだろうことも分らないではない。でも、脳死は、現在分っている医療技術の範囲内での限定的な死にしか過ぎないのではないかと思うのである。
日進し月歩する医療技術の進化の中で、脳死の治療もまた同じような歩みを続けていくのではないだろうか。そうした治療の進化は、決して「死からの蘇生」ではないだろう。脳死は絶対死ではないことからくる、連続の生と死のはざまにおける、その僅かな隙間への顕微鏡的な介入であり、心理的な葛藤なのではないかと思う。
その隙間はこれからの顕微鏡や医療技術の発達によって、今後更に広がっていくのではないだろうか。脳死と絶対死との隙間は、まだまだ未解明なトワィライトゾーンにあるように思える。こうした曖昧模糊とした隙間の存在が、絶対死と脳死の境界を私たちに納得させられないでいる最大の原因になっているのかもしれない。
2018.4.6
佐々木利夫
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