最近読んだ新聞の読者投稿記事である。タイトルには「50円で『入院』」とあって、30年前に購入したブリキのおもちゃが動かなくなり、近所の「おもちゃ病院」にひと晩預けてその治療費が50円だったとする話である(2018.5.6 読売新聞、大津市67歳男性)。そして彼はこんな風に投稿を結んでいた。「・・・物を大切にする心を育てようと、20年前に病院が設立されたらしい。全てボランティア活動という。心から感謝し、病院を後にした」。

 なんということのない単なる心暖まる記事である。大量生産、大量消費が蔓延している現代社会において、こうしたボランティア活動が存在することに、感謝こそすれ疑問を感じる余地などないように思う。にもかかわらず、私のへそ曲がりのアンテナは、こんな善意の記事にも反応してしまったのである。

 私は、こうしたボランティア活動が存在することそのものにへそを曲げたのではない。ボランティア活動の善意を、50円という無料同然の価格への感謝の気持ちでしか評価していないこの投稿者の思いが、どこか気になったのである。別にこの投稿者のみの問題として気になったのではない。ボランティアの存在が、今では当たり前に存在していることに対して、「善意をありがとう」という思いだけで済ませてしまっている私たちの反応が、どこか気になったということである。

 うまい表現が見つからないのがもどかしいのだけれど、ボランティアとしてサービスを提供する側にいる者の思いと、それを受け取る側にいる者の感謝の思いとのギャップが気になるのである。もちろん提供する側に、自らの提供した善意に対して金銭はもとよりなんらの見返りも求めていないだろうことは分る。また、そのサービスなりを受け取る側も、そのサービスに心から感謝しているだろうことも分る。

 だがそうした提供されるボランティアに対して、「タダでやってもらってありがとう」、「無料でやってもらってもうかっちゃった」という気持ちだけで一件落着させてしまう私たちの「いわゆる感謝の気持ち」が、どこかバランスを失しているのではないかと思えたのである。

 そしてそうしたちぐはぐさが、ちぐはぐなままでにあたかも対等に成立しているかに見える社会の仕組みが、どこか気になるのである。

 どこが、どんな風に気になるのか、この文章を書き始めたときから、はっきりさせたいと思っているのだが、どうにもいい文章が浮かんでこない。それは私の抱いている「気になる思い」が、中途半端だからなのか、まだ未成熟で未完成だからなのか、それとも単なる「気の迷い」に過ぎないのであって、そもそも「気になる」こと自体が錯覚なのか、それもよく分らない。

 ただ、この投稿者が「おもちゃの修理費がボランティアで50円だったことに感謝」していることと、おもちゃ病院をボランティア(相応の対価を得ることなく名ばかりの費用)で行っている行為とが、どこかで気持ちの上でマッチングしないのである。互いの思いがすれ違っているように思えてならないのである。

 そしてそのすれ違いを互いが意識しないままに、互いに了解し納得している現状が、強いて言うならどこか間違っているように思えてならないのである。

 そしてそのすれ違いに対する私の意識は、当事者の思い範囲を超えて、ボランティアをする側、受ける側、そしてそうした仕組みを許容させている社会全体にまで広がっていくのである。

 それはそれでいいではないかと言うかもしれない。食い違ったとしても、例えばボランティアというのはボランティアすることだけで満足しているのであって、相手からもしくは社会から、反対給付を求めているわけではない。だから、そもそも食い違いあったところで、それがボランティアの本質なのだと言われてしまえば、それまでのことなのかもしれない。すれ違うことの中にボランティアが存在するのだと、そんな風に思うべきなのかもしれない。

 ただ私は、そんな風にボランティアを理解してしまうと、受ける側がそのことに麻痺してしまい、いつの間にかボランティアが当たり前のこととして、私たちから一過性の感謝だけしか生まなくなってしまうような気がしてならないのである。

 「50円の入院費でありがとう」、そうした気持ちを超えた何かを投稿者に期待したいと考えるのは、私の身勝手な思いに過ぎないのだろうか。


                                     2018.5.19        佐々木利夫


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入院費50円