岡潔(おか・きよし、1901年・明治34〜1978年・昭和53)について私は、彼が数学者らしいこと以外ほとんど知らない。ただ誰かの本で、彼のエッセイ「春宵十話」からの文章が引用されているのを読んで、少しく興味をひかれた。それで図書館から借りて読んでみることにした(角川ソフィア文庫)。

 彼が77歳で死んだとき私は38歳だったことになるから、ほぼ40歳年上の相当な年長者だったと言える。彼がこのエッセイを書いたのは、同書のはしがきの日付1963年1月30日からすると、62歳よりも少し若いときのことになる。私は現在78歳だから16歳ほど若いころの文章だけれど、私がこのホームページでエッセイを発表し始めた頃とほぼ同年齢である。今の私とは時代が違うといえば違うけれど、およそ40年間ほど同じ空気を吸っていたのだから、それほどのギャップはないようにも思える。

 でもこの本を読んで、どうにも彼の考え方についていけないものを感じてしまった。もちろんこれまでにも私は数多くの本を読んできて、理解不能、読みかけて中断、私と考え方が違う、同感できるなどなど、様々だったことを否定はしない。

 だから読んだ本の中に、ついていけないと感じた本が多数あったところで、それはそれぞれの著者の思いなのだから仕方のないことだと思う。また、著者の意見に私の能力がついていけないことだってあるのだろうから、そのギャップに特に違和感を覚えることはなかった。でもこの本に関しては、読み終えるまでずーっと違和感が残りっぱなしだったことが、どこか気になって仕方がなかった。

 彼はこのエッセイのはしがきでこんなことを書いている。「・・・私が急に少しお話ししようと思い立ったのは、ちかごろのこのくにのありさまがひどく心配になって、とうてい話しかけずにはいられなかったからである」。こうした思いが特に珍しいとは思わない。昔から「今どきの若い者は・・・」で始まる様々な論調は、人間の歴史が始まって以来幾度となく繰りかえされてきた常套句であり、世代間格差のあらわれとしてそれほど珍しいギャップではないと思えるからである。

 どこでもいいのだけれど、少し長くなるが「春宵十話」の中から、「自然に従う」と題するエッセイの末尾の数節(P46)を引用してみたい。エッセイの内容というのではなく、彼の論理の組み立て方を述べたいので、文章としてはつながらない引用になるかもしれないけれど容赦願いたい。引用した文章は、この本の裏表紙にも宣伝文として印刷されているので、一応彼の思いを代表する一文だと考えてもいいのではないかと思い、
それもあってここに引用した。

 彼はこのエッセイをこんな風に組み立てている。「・・・戦後わずか十余年でなぜこんなに早く変わったのだろうか。それは情緒の中心を通すからに違いない。・・・情緒の中心を調和がそこなわれると人の心は腐敗する。社会も文化もあっという間にとめどもなく悪くなってしまう。そう考えれば(春のチョウや夏のホタルの減少)がどんなにたいへんなことかがわかるはずだ。(巨大な)キャベツを作る方は勝手口で、スミレ咲きチョウの舞う野原・・・が表玄関なのだ。」(P48)。

 言ってる意味が分らないというのではない。一応論理として整然と組み立てられていると思う。でもこれが数学者の意見なのだろうか。他者を説得できる組み立てになっていると、著者は信じていたのだろうか。そこのところが私にはどうしても理解できなかったのである。

 例えば引用した文章の最初、彼は日本人が悪くなってしまったのは「・・・それは情緒の中心を通すからに違いない。」からだと言う。だが、何を証拠に、そして何を根拠に「違いない」と言えるのかを、彼は一言も触れようとはしないのである。ひたすら「違いない」を主張するだけで、どうしてそう思うのかの根拠を示そうとはしないである。

 「違いない」と断定するには、きっと彼なりの背景なり論拠があってのことだとは思う。しかしこの文章は、例えば日記などの文章ではない。この「春宵十話」というエッセイは、当時の毎日新聞に連載されていたようなので(同書P199、解説より)、多数の一般読者に向けたものであろう。だとするなら、この主張は公知の事実の主張とは違うのだから、どうしてそう思うのかをきちんとデータをあげて説明すべきではなかっただろうか。

 もちろん彼はこの書を「人の中心は情緒である」と書き出していることからして、彼自身の情緒に対する熱い思いがあるのだろうことは分る。それでも立証されない前提をもとに、「(だとするなら)・・・人の心は腐敗する」などと続けるのは独断に過ぎるのではないだろうか。

 そして彼は、その結果「社会も文化も・・・とめどもなく悪くなる」と結論づけてしまうのである。しかもそうした身勝手な結論をもとに、「そう考えれば巨大なキャベツは勝手口(裏口)で、スミレの咲く野原は表玄関なのだ」と更なる論理を拡大させていく。もちろん表玄関が正しい入口で、裏口が間違った出入り口だと最初から理屈なく決めつけていることは、その前提と同様である。

 そこまで行くとそれはもう理屈ではない。単なる妄想である。根拠なく、ある見解を「・・・違いない」として正義と断じ、それを根拠にさらに「であるなら○○は××である」にまで拡張する、そして更にその正義であることの根拠を示していないことを反省することなく、自分だけが信じる次なる正義の根拠として拡大させていく。

 こうした論法が認められるなら、どんな見解もすべて否定できないことになる。いじめもセクハラもテロも戦争も、世の中のあらゆる理屈は、「・・・に違いない」を否定できない(否定してはいけない)ことを前提として採用する限り、その論理は一つも否定できないことになってしまうのである。

 「人は間違った生物として進化してきたに違いない」。これを正しい意見として否定できないとするなら、「だとするなら人間はこの世の存在してはいけない」も正義となってしまうし、「人類を抹殺するために私はこの世に生まれてきた」とする理屈も必然となる。そして更には「世界人類の抹殺こそが私の使命」であることすら、私の存在を正当化する理由になってしまう。

 彼の書く「春宵十話」の各エッセイは、最初から自らが断じた正義こそが揺るぎない正義であり、反対する意見はすべて間違いであるとする主張で一貫している。彼がそう思っていることを、私は否定したいとは思わない。しかし、根拠を示すことなく「そう思う」、「そうに違いない」だけで綴られている彼のエッセイは、読んでいてとても疲れるのである。独断と偏見を、あからさまに見せ付けられ、押し付けられているように感じられてならないのである。読む端から、頭に来てしまうのである。


                                     2018.9.20        佐々木利夫


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我田引水と偏見