2月9日から韓国平昌(ピョンチャン)で27回オリンピック冬季競技大会が開催される。17日間ほど続くのだそうである。夏季・冬季にかかわらず、オリンピックのたびにどこかへそを曲げている私だが、今日もそうなるだろう。オリンピックの変質というか変節が、どうも私のへそに曲がれ曲がれと囁いているような気がしている。

 恐らく「オリンピック」という名称は、これからも使われ続けることだろう。名称だけからするなら、オリンピックは不滅なのかもしれない。それでも私は、「私の知るオリンピック」は終焉の瀬戸際まできている、もしくは既に終焉を迎えつつあるように思えてならない。それは、私の思っているオリンピックと今のオリンピックの現実とが、とてつもなくかけ離れてしまっているように思えてならないからである。

 その理由は単純である。私の知る意味でのオリンピックは、世界の国々が参加するスポーツ競技大会である。ならば今のオリンピックと少しも違わないではないかと言うかもしれない。だが同じスポーツ大会であっても、オリンピックには例えば「ワールドカップ」とか「世界選手権大会」などとは異なった位置づけにあると思っているからである。

 それは私が小学校か中学校で教えられた、オリンピック創始者と言われるクーベルタン男爵がオリンピックに抱いたという思いから来ているのかもしれない。私の幼稚な知識によればその思いは、彼の語ったという「オリンピックは参加することに意義がある」という一言に集約されるものであった。

 もちろん競技大会なのだから、順位を競うものである。一位、二位、三位をそれぞれ金、銀、胴メダルとして表示し、四位から八位までを入賞とするなど、その意味付けはともかく、競技大会の意味として理解できないではない。

 だが、それに金銭が絡み、国威を求めようとする政治が絡むことで、オリンピックは次第に変質するようになってきた。それは現代社会の必然なのかもしれない。資本主義が経済を中心に動く世界を作り上げてきたこと、そしてその資本主義を背景に「国」という組織が強化されてきたことは、現代という流れがもつ一種の病弊なのかもしれない。

 金メダルの競争は、単に世界一の実力を認定することだけにとどまらず、国として何個獲得したかの競争にまで発展している。国によっては金メダル獲得者に、乗用車や住宅の贈与に加えて年金の付与まですることがあると聞いたことがある。

 単なる名誉を超えて、金銀胴の区別は金メダル以外の銀銅を、敗北のマーカーとして掲げる例すら起きている。そしてメダルを獲得できなかった者全体を、敗北認定のマーカーにされていることは最早常識である。金メダルは、努力した成果なのではなく、ショーに与えられる喝采の証しなのである。だからそうしたメダルの効用を目指す競技者は、ドーピングの規制をすり抜けてでも「勝つこと」だけに向かうのである。

 まさにオリンピックはショーと化した。スポーツがショーとしての側面を持つであろうことを否定するつもりはない。だがそのショーであることが、多額の報酬に結びつき、国威としての宣伝効果を持つことで、経済的な採算を生むことになった。そして必然的に経済論理の渦中に組み込まれてしまう、駒の一つになってしまったのであった。

 それはまた、オリンピックを組織する委員会も同様であった。新しいゲームの開発、売れないゲームの廃止、高額なテレビ放映料金の設定などなど、オリンピックの開催は、まさにショゥビジネスと化してしまったのである。

 恐らくオリンピックに感じる私の危機感は、こうした経済効果に流されてしまった現状にあるのだろう。オリンピックと金銭がこれほどまでに結びついた現状は、既にスポーツがスポーツ本来の持つ純粋さを失ってきていることを示している。

 私はスポーツを神聖視し過ぎているのかもしれない。そもそも、「勝敗を決める」ことの中に、純粋さとか正義だとか、公平みたいな観念を持ち込むこと自体、間違っているのかもしれない。クーベルタンがかつて述べたという「参加することに意義がある」との俚諺は、見果てぬ夢であることを理解しつつあえて自らに投げかけた途方もない夢物語だったのかもしれない。

 かてて加えて、オリンピックとパラリンピックの違いが見逃せないほど曖昧になってきた。義足は健常者の能力を越え、義手もまた人間の能力を越えようとしている。「障害者は障害があることで、健常者よりも不利な立場にある」とのこれまでの常識が通じなくなってきたのである。「障害」の存在が、健常者を凌ぐ能力を障害者に付与するようになってきたのである。

 更に言うなら、水着やスケートや棒高跳びの棒などなど、競技者の周辺の機器は、障害者を含めた人の能力を一層増幅できる精密機械として寄与するまでになってきた。そしてスピードを計測する機器の進歩は数百分の一秒、数千分の一秒の違いまで示せるまでになった。望むなら、数億分の一秒までの違いを計測値として示すことだって可能である。

 つまり、今やスポーツ全体が、マシン競技の世界に入り込んでしまっているのである。汗をかき、疲れる足を引きずる運動から、少なくともスポーツは離脱しようとしている。「より早く、より強く、より高く」が目的であることは分る。だがそれだけが、スポーツの目指す世界なのだろうか。それを果たしてスポーツと呼んでいいのだろうか。


                                     2018.2.7        佐々木利夫


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オリンピックの終焉