オウム事件で死刑を宣告された被告人は、全部で13人いる。そのうちの7人の死刑が2018.7.6に執行された。もちろん、主犯たる教祖麻原彰晃(本名、松本智津夫)がその中に含まれていることは当然である。そしてそれから20日後の2018.7.26日、残る6人全員の死刑が執行され、これで死刑判決を受けたオウム真理教にかかるテロ事件の被告人全員の死刑が執行されたことになる。

 この執行について、死刑執行を是とする被害者団体や死刑の存続を是認する人たちからは当然とする思いが伝えられ、死刑制度に反対する諸団体からは否定的な意見が寄せられている。

 それはそれでいいだろうと思う。死刑なしに被害者はもちろん被害者家族も救われないとする意見はそれなりに理解できるし、死刑は残酷であり冤罪であったときには救いがたい禍根を残すとする意見にもそれなり理解できるからである。

 私はどちらかというと死刑には賛成であり、特に死刑制度が法定されているいる以上、死刑判決が出て死刑が執行されることは法治国家として当然のことだと思っている。それは死刑を認めるとか認めないという理屈とは別に、法治国家としての至極当然の結論だと思っているからでもある。

 死刑制度の反対論者は、死刑廃止が世界の潮流だということを根拠にあげているが、それはそれぞれの国における国民の意思によるものであり、日本が世界の流れに流される必要はないだろう。それではまるで小学生が、「クラスの皆がこのゲームや携帯を持っているから僕にも買ってくれ」と、親に駄々をこねるようなものだからである。

 また死刑の残虐性については、いかに国家といえど「人の死」を左右できるのかとの意見が分らないではない。だがその「人の死」を先に行ったのは被告人自身であり、被害者家族や国民の多くがその報復を望んでいることもまた理解できる。死の責任は、ままず一義的にはその犯人にあると思うからである。

 冤罪の問題については、確かに取り返しがつかないだろう。人の死を復活させることはできないのだから、執行されてしまった死刑をなかったことにすることは不可能である。そして、どんなに慎重を期しても、人が人を裁く現行司法制度の下で、「絶対的に誤判はありえない」と断言することは難しい。

 恐らく死刑廃止の最も妥当する根拠は、ここにあるのではないかと思っている。神が審判するのではなく、人が人を裁くのだから、どんなに慎重を期したところで100パーセントの冤罪を防ぐことはできないだろう。

 だとするなら、それを根拠に死刑制度を否定できるだろうか。「絶対的な真実」を根拠とするのならば、恐らく人間社会そのものが成立しなくなるだろう。なぜなら、その根源は「人が人を裁く」ことにあるからである。だから少なくとも日本国民は、裁判に最高裁までの三審制度を採用し、裁判員制度によって国民の参加者を加えて意見を加味し、更に再審制度によって確定した裁判判断をも覆すことのできる余地を残したのである。

 「絶対間違わない判断」以外は認めないしすべきでないとするなら、人による判断、たとえそれが家庭にしろ組織にしろ、はたまた国家や社会にしろ、すべてが機能しなくなることを意味している。99%正しくても、99.99%正しくても、それだけではどんな判断も下してはいけないことになるからである。

 刑事罰というものが、応能刑なのか報復刑なのか、必ずしも分っているわけではない。殺人でも心神耗弱者の犯行や14歳未満の刑事未成年の犯行には刑法の適用がないこと、つまり責任能力に応じて刑罰が決められることとの整合性も、私の中ではまだきちんと整理はできていない。

 それでも死刑制度は必要だと思っている。単なる感情論かも知れないけれど、自分の家族や恋人などが殺されたとき、相手を殺したいと願うのは「人としてのごく自然な思い」ではないかと思うからである。

 他方今回のオウム事件の死刑の執行に当たり、死刑賛成論者からの声として、「事件を語らせる必要があったのではないか」との意見があったのには、少し違和感を覚えた。なぜなら、事件の背景を語らせることは、気持ちとして分らないではないけれど裁判の目的ではないからである。

 「事件を語らせる必要があった」との意見の背景には、「事件の真相を語らせる」までは死刑の執行もしくは死刑の判決そのものを猶予すべきである」との思いがあるからであろう。死刑の判断と執行は、死刑に相当する犯罪が行われたかにのみかかるのであり、動機であるとか背景などは犯行の事実を証明する手段にはなりえても、必須の要件ではないからである。

 「理解できる動機」を判断の要件としてしまうなら、最近起きた無差別殺人のように、「殺すのは誰でもよかった」などの犯行については裁判の判断を示せなくなってしまうからである。

 そしてその「事件を語らせる必要」との思いがまた、偏っている思いであることが重要である。その思いは被害者や被害者家族などの「自分が納得できる理由」に限られているからである。どんなに犯人が犯行の理由を述べたところで、その理由が被害者家族や周りの人々などが理解でき納得できるものでないときは、それだけで「事件の理由」にならないからである。

 「納得できる理由」と「真実の理由」とは異なるのである。そして被害者家族などにとってみるなら、「自分に納得できる理由」こそが「本当の理由」なのであり、そうした「私が納得できる理由」を犯人に語ってほしいだけの思いで主張してるだけだからである。

 「可愛い我が子が殺された」のは「可愛い」からであり、決してその子が「人でなし」の「性格の悪い」奴だったからであったこととを犯人が動機としてのべても、それは「事件の真実を語ったこと」にはならないのである。事件の真実とは「納得できる」ことと同義であり、納得できないことは決して被害者や被害者家族にとっての真実にはなり得ていないということを示している。

 死刑が執行されてもなお、被害者家族は「事件はまだ終わらない」と語る。でもその「終わらない」の程度は、未解決事件のままになっていることとは異なるのである。「死刑を墓前に報告する」とも語ることは、死刑にはそれなり癒しの効果があることを示している。だから、「事件はまだ終わっていない」と語ったことを理由に、死刑に効果のないことを理屈づけることはできないと思うのである。


                                     2018.7.27        佐々木利夫


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オウム事件と死刑