つい最近のNHK朝のテレビは、引きこもりと思春期をめぐるテーマをとりあげていた。その時の中心となるキーワードが「性ホルモン」であり、時に親への暴力行為にもつながるのだそうである。聞いていて、何でもかんでも性ホルモンのせいにしてしまう識者の回答にいささかげんなりしていた。いかにももっともらしい理屈をつけてはいるが、その実どこからもそれが真の原因であるような説得力が感じられなかったからである。

 そのとき、ふと「思春期と親嫌い」について思ったことがある。一般的に反抗期と言われていることに、いわゆる子離れ、親離れ、つまり子が親になっていく過程での独立の気運が生み出すものであり、保護されている者の保護者からの独立を意味するというものである。親の保護を受けることなく、自らの力で生き抜こうとする意思、その決意と能力の充実が親からの離脱心たる反抗を生み出すとするものである。

 これが反抗期と呼ばれるもので、親の保護を疎ましく感じる年代の意志だとするものである。私もこの考えを特に矛盾なく理解してきた。反抗期を経て子どもは親から独立していくものだ、それが現象面として親嫌いという形式をとるのだと、特に違和感なく思ってきた。

 そうした思いを否定しようとは思わない。保護されて生きることは、独立して自らの家庭を作っていくことや子孫の維持を図ることと矛盾するように思えたからである。親に逆らうことで子は自立の道を見出していく、そんな風に私は反抗期を理解し、それが最大の保護者である親からの独立意志たる親嫌いの背景にあるのだと思ってきた。

 ただそう考えると、人間以外の動物にも同じように反抗期があっていいように思えるにもかかわらず、それがどうも見えてこないことが気になった。どんな動物だって未熟で生まれ、親の保護の下で育ちながら自らが親になるための準備をしていく、そうした経過に例外はないように思える。

 ならば、ライオンやツバメやクジラなどにも親嫌いの時期が発生するのだろうか。確かに産みっぱなしの親の例はあるけれど、動物の多くは独立してエサを確保できるようになると、例えば哺乳動物では母親の乳が出なくなるなど親の変化として子の独立を促すようになる。

 それは、親は自らの子の保護を犠牲にしても次の子を産まなければならないからである。つまり、人間以外では、親は子の養育を拒否するようになるのである。たとえ子が保護を求めても、親は生理的、本能的に育児を放棄するような体に仕組まれているのである。

 そこで人間の場合を考えてみよう。現代社会における特有の習慣なのかもしれないが、結婚しない子どもを心配する親はあるけれど、子の保護を放棄することはネグレクトなどの例外を除きほとんどないのではないだろうか。つまり、親はいつまでも子の保護者であると思っているのではないだろうか。少なくとも、生理的に保護者たる地位を放棄するようになっているとは思えないのである。ただそれが本能なのか、後発的な倫理感によるものなのかは疑問である。

 さてこのことを、人間の子どもの側から考えてみよう。子は例外なく反抗期を迎える。そしてその反抗期は二度に分けて訪れると言われている。つまり、第一期と第二期である。

 第一期は通常二歳頃の幼児期、つまり「イヤイヤ期」だといわれている。二歳児をどこまで「独立した人格」として認めるかは難しいところだとは思うが、少なくとも子孫を残す能力の入口に達したとまでは解しがたい。そうするとこの第一反抗期は、せいぜい自立して食物を採取するためのスタート地点と考えてもいいのではないだろうか。

 そして第二反抗期は思春期に当たるという。ならばこの第二反抗期は生殖への自立もしくは自立への準備のスタート地点に当たると言ってもいいのではないだろうか。

 人間を除く動物の場合、多くは母親に次の生殖のための準備ができると、子は庇護から追いやられる。追いやられることは、子にとって食物の確保と生殖相手の確保を自己の責任として行わなければならないことを意味する。自立による生存と家族の形成こそが、種の保存のための決定的宿命なのだと、私たちは見つけたのである。

 この第二反抗期と家族という集団生活というシステムを考え合わせたとき、そこにこそ親嫌いの原因があるのではないかと思ったのである。それは近親婚の自動禁止システムである。そうしたシステムが、匂いからくるのか、それともまったく別のフェロモンのような刺激かにくるなのか、はたまたもっと異質なテレパシイとも言えるような何らかの精神的伝達によるものなのか、そこんところはよく分らない。

 ただ、近親婚は今でこそ「倫理」の問題として考えられているけれど、本来的には「倫理」の問題ではないと私は思う。むしろ生物の種の存続のためには「近親婚」のほうが合理的であるとすら言えるのではないだろうか。そしてそれが種の存続にとって望ましくない手段だとされたのは、何も「倫理」ではなかったはずである。

 「種の保存」にとって近親婚は有害であり、避けなければ種の保存そのものが危うくなる、そうした事実が自明となったからである。それは決して倫理の問題ではない。近親婚は多くの場合「種の絶滅」への道筋となる、そのことが事実として明らかになってきたからである。

 だから人間に限らずすべての生物に「近親婚を避ける」ための遺伝子が組み込まれたのではないだろうか。倫理ではなく、種の保存という生物の宿命にとって近親婚はあってはならないことが、事実として明らかになってきたからではないだろうか。

 だから私は、そうした近親婚を回避させるような遺伝形質が、すべての生物に思春期とともに発動するのではないかと思ったのである。「自らの成熟に伴い、親の存在そのものに対する嫌悪感が発生する」、それが人類では第二反抗期に発動したのである。それは近親婚を自動的に抑制する生物学的遺伝子機能として、私たちのDNAに組み込まれてきた生物としての基本なのではないだろうか。

 「親嫌い」は理屈でも倫理でもなく、単に組み込まれた近親婚を排除するという遺伝子の仕業に過ぎない、私は思う。そしてそれは人間が人間であることの必然なのではないだろうか。だから反抗期は一過性であり、自立した子はいずれ「どうして若い頃はあんなにも親が嫌いだったのか」、と思い返す時期がいつか訪れるのではないだろうか。


                                     2018.5.4        佐々木利夫


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思春期の親嫌い