NHKテレビに、「みんなの歌」という番組がある。特に興味のある番組ではないのだが、他局のコマーシャルから逃げようとして、ついついチャンネルを代えると時にこれにぶつかることがある。そんな時に題名は忘れたが「パプリカ」という歌が入り、その中で「パプリカの花」という歌詞が流れた。

 それを聞いて、ふと私はこれまでパプリカの花と言うのを見たことがないことに気づいた。パプリカは、昔はなかったような気がしているのだが、最近はサラダなど妻の料理に入ってくることが多くなってきている。色はともかくそして大きさも肉厚も少し大振りのような気がするけれど、味も食感もピーマンと同じようなものである。したがって食べ方も似たようなものになるのかもしれない。

 隠花植物という分類があるのだから、花が必ずしも人間の目に見えるとは限らないだろう。それでも花のない植物なんてのはないのだから、きっとパプリカにも花があると思ったのである。とは言いつつ、私はピーマンの花すら見たことがない。

 味や臭いなどからして、恐らく唐辛子の仲間ではないかと思う。だからこの仲間は、似通った花になっているのではないかと思うのだが、私の知識の中に唐辛子の花の記憶もなかった。

 結局はネット検索で、上の写真のような花だと分ったのだが、あんまりあっさり分ってしまったことに逆に拍子抜けしてしまった。これだけポピュラーな食材でありながら花の知識のないことが、私の知りたい気持ちを後押ししてくれたからである。知らないことを知りたい、それも常識的に知っていて当たり前と思えるにもかわらず知らない、このことが私の知りたいという気持ちを刺激したからである。

 そしてその反面、こんなにもあっさりと答が分ってしまったことが、私の知りたい気持ちを一気に冷やしてしまったのである。そしてそのことに、いささかの落胆を感じてしまった。

 あっさりと分った原因が、ネットの便利さにあることに違いはない。ただネットがなければ、まずは自分の蔵書の中にある植物図鑑(野草と牧野富太郎の植物図鑑しかないのだが・・・)をめくり、恐らく見当たらなくて図書館にまで出向いてやっと見つけことができたのではないかと思う。

 そうした探し出す楽しみみたいな思いが、あっさり見つかったことで一瞬で消えてしまったのである。探し出すと言う楽しみを、興奮などと持ち上げるつもりはないけれど、それでもその探し出すまでの時間は一種の喜びであり、決して無駄な時間ではないように思える。

 私はこのまだ見たことのないパプリカの花に、そして鮮やかな黄色や赤やオレンジの色やピーマン族らしき風情の中に、色々とその形を想像した。どんな色をしているのだろう、大きさはどのくらいだろう、花の形はどんなだろう・・・、想像は膨らむばかりであった。

 パソコンを開いて、検索窓口に「パプリカの花」と入力して、画像検索をクリックする。ただそれだけの何の手間も必要のない、当たり前のネット検索手順である。どんな荒唐無稽な内容でも、今のインターネット環境は、検索結果を裏切ることはない。瞬時に数万もの結果が示されるまでになっている。

 パソコン検索するときに私は、瞬時迷ったことを記憶している。検索ボタンをクリックすることで、あっと言う間に答が目の前のモニターに表示されるだろうことは予想できた。そしてそれはそのまま、探す楽しみを自ら放棄することを意味していたからである。知ることとは知る過程を楽しむことであり、知る努力をしている我が身を自分の中に確認することでもある。そんなことを、私は長く忘れていたように思った。便利さの影に隠れて、努力して探すことの楽しみを自ら放棄していたことに気づいたのである。

 ネットの世界は、無限とも言える情報の宝庫である。犯罪や自殺などの違法サイトまで含めるなら、無限の情報は更に拡大していく。そうした便利さに、私たちは知らずに麻痺している。情報に到達することに、何の努力も要らないことに馴れきっている。

 便利さはパソコンだけに限るものではない。私たちは「便利」、「手軽」という環境の真っ只中に我が身を委ねている。料理番組は今では、「手抜き、簡単」がキーワードになっているような気さえする。確かに洗濯機や掃除機は主婦の労力を大きく軽減した。生産性を上げ、効率的に仕事をこなすことは、今や企業や社会の常識にすらなっている。

 何のための時間の節約なのだろうか。何のための手抜きなのだろうか。浮いたと感じる時間を、人は何に使おうとしているのだろうか。昼寝や、ボーっとしている時間を、無駄だと言いたいのではない。余暇と呼ぼうが、惰眠と呼ぼうが、はたまた沈思黙考と名づけようが、その人の固有の時間である。どんな風に時間を使おうが、それはその人の裁量に任せられているとは思う。

 そして私は、人は「自分だけの時間」、「自らの裁量に委ねられた時間」を生み出すために、「便利」、「手軽」を求め続けているのだろうか。パプリカの花を検索しながら、時間の有り余っている老人は、ふと、効率的でない時間の過ごし方に思いを馳せたのであった。


                            2018.11.7     佐々木利夫


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