パワハラそのものは特に珍しい話題ではないけれど、最近とみにハラスメント関連の話題がメデイァを賑わしている。珍しくないから問題として軽いなどと言いたい訳ではないのだが、最近の話題はそれがスポーツ界にまで広がっているように思えることが興味深い。

 スポーツにおける師弟関係や指導者と選手の関係は、スポーツそのものが力と力のぶつかり合いにあることが多いことから、どうしても指導という行為がパワハラに類似したものになる場面が多くなるように思える。パワハラは単に肉体的な暴力に限らず、言葉による暴力や無視という不作為みたいな行為まで含まれることは、少なくとも現代では常識である。

 ただ親と幼児・小児などとの関係と異なって、スポーツにおける指導者と選手の関係は、仮に選手の方が未成年であったとしても相応の年齢に達していることがあげられるだろう。つまり、力の与える方と受ける方とが互いに相手を理解できる立場にあるということが特徴でもあろうか。

 一般的には、指導する側が力を発する立場、選手がパワハラを受ける側になることが多いだろう。それは指導する側が本来的に力を持っており、その力を受けとめる側として選手の存在があると思われるからである。それはそのまま、「指導的な体罰」、「教育的な体罰」、いわゆる「しつけ」との曖昧な接点を生み出すことになる。

 ただ、そうした立場の違いそのものがパワハラになるわけではない。力の存在そのものがパワハラになるのではなく、その力の不当な行使がパワハラになるからである。ところが、現実のパワハラの現場は多くの場合密室である。多くの選手の目の前で公然とパワハラが行われるケースがないとは言えないだろうが、パワハラそのものが社会的に許容されない時代になっていることから、そうしたケースは極めて稀なこととして密室化していくことになる。

 そうしたとき、当事者の言い分しか証拠がないというケースが発生する。肉体的な暴力にしろ、はたまた言葉による暴力にしろ、例えば映像などのような直接的証拠のない場合が多くなるだろう。いわゆる水掛け論というやつである。

 そうしたとき、メディアの取り上げ方が問題となる。もちろん、どんな視点で取り上げようとも、それはメディアの自由であり、言論の自由という範囲に委ねられるべきであることに違いはない。だがその視点が時として視聴者迎合であったり、世論を捻じ曲げさせる意図が見られるようなときは、どこかで「言論は公正であるべきだ」とする私のへそ曲がりが頭をもたげてくるのである。

 そうした曲げられた意図は、極めて単純に表出される。つまり対立する二者を、敵と味方、強者と弱者に迷うことなく二分し、片方に悪をもう片方に正義を証拠を示すことなく、意図的に割り振ってしまうことである。

 パワハラの報道におけるこうした対立関係の構成は、極めて簡単である。指導する側、つまり監督者が悪であり、パワハラを受けたとされる生徒や選手を弱者に仕立て正義を与えるのである。多くの場合、「だからパワハラなのだ」、「強いものが力任せに身勝手に振舞うことをパワハラと言うのだ」と言うかもしれない。

 そのことがまるで分らないとは言わない。ただ、何の証拠もなしに一方的に善と悪を割り振ってしまうことは、ことの本質を見えなくしてしまうのではないだろうか。

 善悪の対立構造を作り上げる手法は、今回表面に現れた体操協会の事件に典型的に表れたように感じる。事件は18歳の女性体操選手(A)、そのコーチ(B)、そして組織である体操協会の幹部(C)を巡るものであった。

 報道によるとAの指導に当たりBが暴力を振るったとして、CがBの指導者資格を剥奪したのである。これに対しAから、Bから暴力を受けたことは認めつつも、資格剥奪処分は重すぎると主張したのである。そして逆に「Bから暴力を受けたことを認めよ」とするCからAへの言動は、逆にC→Aのパワハラに感じたとの訴えがあったのである。

 さてここで対立構造をどう作るかである。まずAは当然に弱者である。Aの資格はどこにも問題はない。指導を受ける者であり、しかも18歳の少女であり、かつ個人としての立場である。次に対立する悪はまさにパワハラを感じたとする相手方のCである。Cもまた対立者として申し分がない。何しろ肩書きのついた大人であり、組織の一員で権力を持っているからである。

 そしてここにもう一人の当事者が登場する。パワハラを行ったとされるBの存在である。どんなパワハラだったかよく分からないけれど、暴力だったことに違いはないようである。だが一つ困ったことがある。AがBを擁護していることである。Bを悪に含めたらいいのか、それとも善として扱うか、メディアは悩んだはずである。なぜなら、対立する構造に仕立て上げ、善を擁護し悪を追及する形に番組を作り上げなければならないからである。とてものことに「真ん中」にBを置くなどの中途半端な位置づけなど許されるものではない。

 善と悪、どちらかに分断することがメディアの責務であるとメディア自身が思い込んでいるのかもしれない。というよりは「悪」を見つけ出すこと、「敵」を作り出すこと、これこそが番組の使命だと信じているようである。

 そのこと自体を間違いだとは必ずしも思わない。そうした姿勢を「真実の報道」などと名づけてしまうことには、いささかの恥ずかしさが伴うけれど、間違いだと断ずることはできないだろう。ただ、その善悪の判断基準、敵か味方かを区別する基準なり判定の基準なりがどれほど難しいことなのかについて、メディア自身がほとんど自覚していないように思えるのである。それは決して、間違ったら後で訂正記事を出しておけばいいで済ますことなどできないからである。

 まさにここでも「事実の認定は、証拠による」とした刑事訴訟法(317条)の信念がメディアにも試されることになる。この考えは、単なる噂や視聴率や製作者の思惑で判断してはならないことを意味している。

 こうした証拠によらない善悪や敵味方の区分は、特にテレビのトーク番組に多いような気がする。番組の司会者のみならず参加しているコメンティーターなども含めて、個々人の思いつきによる判断がとても多いような気がしてならない。

 それは「もし、・・・だったとするなら」とか、「以前経験した・・・によると・・・」など、単なる想像や、無関係な類似例をあげ、それを結論なり判断の根拠にしている番組が余りにも多いからである。もちろん自らの下す判断を「絶対正しい」として断定断言しているわけではない。必ず、「仮定ですけど・・・」とか「間違っているかもしれませんが・・・」などの含みは持たせている。

 だからと言って、「裁判だって間違うことがある」などと、したり顔で妥協したいとは思わない。「人は間違うものさ」などと無責任な言い方を許容しようとも思わない。

 メディアがどこまで真剣に思い込んでいるか、かなり疑問ではあるけれど、報道というのは多数決ではなく真実を伝えることにあるのだろう。報道とはプロパガンダではないはずである。証拠無き報道は、報道そのものの信頼を失わせる行為であり、それより以前に報道そのものの自己否定である。

 証拠を見つけ出すことはとても難しい。ときに見つからないことだってあるだろう。どんなに「真実だろう」と思えても、それを証明付ける証拠が見つからないことだってあるだろう。だが「証拠なき真実」はあくまで「真実だろう」にとどまるのであって、決して「真実」にはなりえないのである。

 証拠無き真実は、メディアがどんなに真剣に思おうとも、「真実ではない」と判断せざるを得ないのである。それがメディアの使命である宿命なのである。そのために報道する者は、ときに命を落とすことさえあるのである。だからそのための力を与えられているのである。

 唯一つ、メディアが思い込んでいるらしい思想がある。それは「弱者は常に正しい」、「強者は常に悪だ」との思いである。それを実証なく表に出してしまうから、メディアは信頼されなくなってきているのかもしれない。「弱者が、悪意で強者を貶めるために主張する事例はないのか」、少なくともその辺の検証、少なくともそうした視点からの検証なくして、メディアの信頼は取り戻せないのではないかと私は思う。弱者保護みたいな意見が無批判に広がるそんな現代のメディア文化に、私は危うさを感じ頑なにその自滅の未来を恐れているのである。


                                     2018.9.7        佐々木利夫


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