レクイエムというのが宗教歌であることは知っていた。聖歌とどう違うのか、賛美歌とはどこが違うのか、私はまるで知らなかった。ただクラシック好きの私としては、レクイエムというのが単なる神への賛歌として日常的に教会で歌われるような音楽ではなく、むしろ大曲、荘厳で厳格で規律的で絶対的ですらあるような位置づけを感じていた。

 なにしろレクイエムと題された音楽はどれも重く、しかも著名な作曲家の作品が多いからである。なんたって、モーツアルト、ヴェルディ、フォーレなどそうそうたる作曲家が鎮座し、この他にも多数存在しているのだろの。また、レクイエムと名づけられていないにもかかわらず、同じような内容の曲が他にも多数あるかもしれない。

 そうした不確かな理解はそもそも私の無知からきており、鎮魂ミサ曲や霊歌などとの違いすら分っていない浅薄さに身のすくむ思いさえしている。しかもこれらの曲を聞いていても、歌詞の意味がまるで分らないこともあって、どれもこれも似たような曲想を抱いてしまっていた。それもこれも、私の宗教観というか無信心さからきているでのかもしれない。

 それはともかく、解説によると「鎮魂ミサ曲」と訳されているように、レクイエムとは「死者の魂を鎮めるためのミサ曲」である。つまり、死者の霊を慰めるための曲、ということである。

 そうした解説を聞いていて、キリスト(レクイエムはキリスト教だけの曲なのか、それともイスラムやロシア正教などとも関連しているのか、それも分らない)の世界においても、死者は幸せではなかっことが分ったのである。

 死後の世界を信じることは、恐らく世界のあらゆる人種に共通する思いだと思う。死後もなお生きることは、ピラミッドや古墳などの埋葬形式などからも理解できるように、人に共通する思いだったような気がする。

 それは「死なない」というのではなく、「死者の復活」を信じていたのだと思う。日本での死者の復活は、普通悪霊として社会に災いをもたらす場合が多いけれど(御霊信仰)、権力者としてそのままの姿で復活することを信じている国も多い。

 仏教は死後の世界を天国と地獄に二分し、三途の川を渡っ後に閻魔(えんま)の審判により死者の行く先が決められることになる。その基準は生きていた時代の生き方によるものとされている。そして救われる者は天国ヘ、そうでない者は様々な形態を持つ地獄(血の池、針の山、餓鬼道など・・・)へ落とされることになる。そして地獄とは悪の行く末である。正直で信心深い者は、天国というただ一種の至福の環境へ入ることができ、他方地獄はその者の生前の態様により分類されるのである。

 地獄に落ちたものは、生涯(死者にも「生涯」という発想があるとすれば)地獄で過ごさなければならないのか、また天国で悪をなした者は地獄へ落とされることがあるのか、その辺のことはしらない。つまり天国と地獄とは本質的に往来が可能なのか、そこまでのことはまるで知らない。

 それでも生者にとって死後天国に行けるのか、それとも地獄へ落とされるのかは重大な関心事である。天国へ行けた者はそこで安住できるものと信じられているからである。つまり、生前に善をなしたり信仰深かった者は、自動的に天国に行けたのである。

 つまり天国に行けるかどうかは、死にいたるまでのその者の生活にかかっていたということである。「死」までに善行を積めば、その善行の程度としての要件はともかく、天国への切符を手にすることができるということである。

 にもかかわらず、このレクイエムの考えは異なっている。死は解決にならないのである。死者が死後も安らかに過ごせるように祈るのが、レクイエムなのである。死者は、死してもなお苦痛の世界にいるのである。

 キリスト教における死後の世界がどういうものなのか、私は知らない。ダンテの地獄変を読む限り、一応は一つの天国と複数の地獄に分かれているようだが、それは死者の生前における生き様により決定されるのではないような気がする。

 そして生者は死者のために祈るのである。レクイエムの歌詞は、そのほとんどが共通している。「彼ら(死者)に永久に安息を与えたまえ」、「彼らに永遠の安息をお与えてください。慈悲を与えてください」、「永遠の安息お与えください」。

 歌うのは信者である。そしてその歌は、「死した信者たち」に向けたものである。信者が死した信者のためにレクイエムを歌うのである。それはつまり、「生前に神を信じていたこと」だけでは、永遠の安息が得られないことを示しており、そのことを生きている信者もまた分っていることを意味している。

 無神論者が地獄に落ちるというのなら、それはそれでいいだろう。だが、生き残っている信者が、信者もまた死してもなお平安が得られないであろうことを知っていることは悲しい。だからレクイエムが必要なのである。死んだ魂が安らぎを得られるように祈らなければならないのである。

 信仰の有無にかかわらず、世界は常に争いの渦中にあった。領土をめぐる争いだけではない。宗教や肌の色や習慣の違い、そして性別や所有権などを巡って人は常に争い、そこに住む人が救われることはなかった。それはまた、信仰によっても救われなかったことを、レクイエムの存在は示している。

 死者は死んでもなお救われないのである。たとえ信者であっても救われないのである。生きている者がレクイエムを歌うことで、死者がどこまで救われるのか、私には分らない。神に平安を願うことで、死者に平安が得られるのか、そのことは更に分らない。

 分るのはただ、死者もまた不幸の中にいること、そしてその事実を生者もまた分っていることだけである。だからレクイエムとは、救いのない人生が死後もまだ続くことを、あからさまに示した歌なのである。


                            2018.11.17     佐々木利夫


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レクイエム