もう一ヶ月以上も前になるが、「サボりのススメ」と題する新聞の特集があった(2018.4.12、朝日新聞、耕論、オピニオンフォーラム)。働き方改革に関する法案を巡って与野党が国会でもめている中、「組織の中で息切れせずに実力を発揮するには、サボるという視点が大切なのではないか」、との思いを中心とする数人の識者からの意見を掲げたものである。

 その中の一人の「踊り場で休んで頭を整理」(元プロ野球選手・解説者)と題する投稿記事(正確には記者との対談を原稿にしたもの)を読んで、ふと気になった。彼はこんな風に自らの過去を振り返る。「・・・全体を見渡せるのは自分だけです。・・・49の失敗を許して、51の成功を取りに行けば、景色は変わります。・・・」。そして更に、「・・・僕は仕事も人生そのものも同じだと考えています」とも言う。

 彼の言う51の成功が、49回負け続けた上で手にした最初の成功を意味しているのか、それとも101回の勝負における過半数たる51勝を意味しているのか、必ずしも分からないかった。文中に「・・・良くも悪くも派手なことをやらなければイーブンにはできる」とあったので、イーブンの意味を調べてみたところスポーツ界などで良く使われる、五分五分(つまり引き分け)の意味だと分かった。それで彼の言い分は多分勝率51%を意味しているのだろうと思った。

 そして分ったのである。つまり彼は、「派手なことさえしなければ最低でも五分五分にはなれる」ことを前提に、自らの話を進めているのである。彼の言う「派手なこと」の範囲や意味を私は知らない。彼もそのことには触れていない。それでも「派手さ」にさえ気をつけていれば、少なくとも「五分五分にはなれる」というのが彼の意見の基本である。

 そしてその五分五分の上に、更なる一勝を加えることで51という過半数の勝利、つまり人生としての過半数の成功が得られるのだと彼は主張しているのである。数式として分らないというのではない。50勝+50負=100回勝負という計算式を、51+50=101にして勝率を50%以上にするとの意味であり、それくらいことなら誰にも分る道理である。

 だが、その前提となる50+50=100という等式を、彼はどこからどういう根拠で導き出してきたのであろうか。そしてまた、次なる101回目の勝負が必ず1勝に結びつくという確信はどこから導いたものなのであろうか。そしてそうした思い込みと、この特集記事のタイトルである「サボること」との関連は、どのように理解すればいいのだろうか。

 それとも彼は、100歳まで勝負は続けられることを前提に、仮に49歳まで一勝もすることなく負け続けたとしても、51歳から100歳までは必ず連勝するのだということを言いたいのだろうか。そして101歳目に得た勝ちを加えて、必ず勝率が50%を超えるということを言いたいのだろうか。どうもそうではないような気がする。

 こうした彼の気持ちが、単なる願望であるというのなら、それはそれでいい。彼が「私はそう思う、そう信じる」というのなら、仮に根拠を示せない主張であったにしろ、その人の信条なのだからと「あぁ、そうですか」と聞き流すことくらいはできる。それは、説得の根拠が手段や証拠で示されたものではなく、単なる思い込みだからである。宗教と同じように、単なる信じることにあるのだろうからである。

 だとするなら、私は彼の思いを否定するつもりはない。「絶対勝つ」と信じてスロットマシンのハンドルを回したところで、信じることを否定はしない。そして掛け金よりも多い配当がマシンから吐き出されてくるだろうことを信じてハンドルに祈ったところで、それに異を唱えようとは思わない。それは例外なく世界中の誰もがそう「信じて」ハンドルに手をかけただろうからである。

 だが、この投稿で彼は「サボる」ことで、五分五分の人生が次の一手で「過半数を超えた勝率」に変わることを説得しようとしているのである。五分五分であることの前提が正しいことの説明もないままに、次の一手が必ず勝って50%を超えるということを、根拠もなく主張しているのである。

 もちろん彼は「まるで根拠なく」主張しているのではない。記事の末尾は、こんな言葉で締めくくられているからである。「・・・踊り場をうまく使いつつ踏み外さなければ、だれでも51の成功に届くのではないでしょうか」、彼はこんな風に締めくくっているのである。

 これが彼の言う「サボりのススメ」の根拠である。「踊り場」とは恐らく、「ゆとり」とか「反省」、「内省」、「落ち着き」などを意味しているのだろうが、彼はそのことを説明していない。そして、「うまく使い踏み外さなければ」、これが果たして説得力ある根拠になるだろうか。「うまく使って」勝利を得ることなんて、何の説得力もないのではないだろうか。気恥ずかしさもなく、「うまくやれば勝ちます」みたいな言葉を、どうして彼は新聞紙上という一般他州の前に自分の意見としてさらすことができたのだろうか。

 「うまくやって勝てれば負けない」、彼はこの程度のことしか言っていないのである。勝ち負けは人生の常である。うまくやったつもりでも時にそれが負けにつながるのだし、踏み外さないように慎重に歩いても道から外れてしまうことがある。それが人生なのである。

 彼の主張を読んで私は、例えば「失敗を恐れるな」、「努力すればいつかわ報われる」、「負けにこだわる心が次の負けにつながる」みたいな、空虚な説教じみた精神論よりも、一層の腹立たしさを感じてしまったのである。「何にも言わない」ことよりも、さらに意味のない言葉の羅列になっているとしか思えなかったのである。腐臭すら感じたのである。


                                     2018.5.31        佐々木利夫


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サボりのススメ