新聞やテレビでチラリと知っただけだから、実態がどうだったのか、何が真実なのかまではまるで分らない。また、この事件について調べようともしなかったのだから、単なる私の妄想の範囲に入るできごとなのかもしれない。それでも私にはこの殺人事件が、タイトルに掲げたようにまさに「優しい殺人」のように見えたのである。

 私の知る限り、事件の概要はこんなものである。

 今月18日、埼玉県和光市に住む14歳(中学生)の孫が、同居している80歳代の祖父と祖母を殺害した。祖母はかろうじて助かったらしいが祖父は病院で死亡したそうである。この事件を聞いたとき、とっさに私は、祖父母に小遣いをせびって断られたか、もしくは口うるさく勉強しろ勉強しろと毎日毎日責められて頭にきた孫が事件を起こしたのだろう、そんなことを考えた。似たような事件がそれほど珍しくなく他にも発生していたからである。

 ところが近隣の人たちの話では、とても優しい子供であり祖父母とのトラブルなど考えられないというのである。事件後間もなく少年は近隣をうろうろしているところを保護され、殺害を認めたそうである。そしてその後、警察などから事件の動機についての情報が語られてきた。それによると、祖父母とのトラブルが原因ではなかったと言うのである。

 単なる言い訳か、または嘘の自供なのか、その辺の事情はまるで分らない。ただ、孫の自供によると、この殺人の原因は恨みや憎しみではなく、むしろ祖父母に対する愛情みたいな感情が背景にあったと言うのである。

 孫は学校でいじめにあっていたそうである。そのいじめは耐えがたいほどで、彼はその加害者を殺そうと決心した。そのいじめの程度について私は知らないので、どの程度の状況だったのかの判断もできない。それでも「相手を殺したい」と思った気持ちは、その正否はともかく理解できるように思えた。

 さて、その次である。孫であるその彼は、いじめの相手を殺害した後のことを考えた。殺害したことにつして、家族はきっと苦しむことだろうと考えたのである。そして優しい祖父母や両親に、そんな苦痛を与えることに耐えられないと考えた。

 そこまでも分る。普通は殺人を犯すことによって起きる家族の苦しみを考え、殺人という理不尽な行為を思い止まることだろう。通常はそうした思いのなかで、人は殺人という行為に走ることはないだろうと思う。

 ではどうするか。いじめはこれからも続くだろう。我慢の限界を超えて相手を殺すしかないとまで追い詰められたいじめである。そこから逃げるためには、自らの死を選択するしかないことになる。耐えられないほどのいじめである。相手を殺すか、自分が死ぬかしか答えはない。

 そして彼はいじめ相手を殺すことを選択した。殺した後でどうしようとしたのか、そこまでの報道はないが、恐らく自殺を考えたのではないだろうか。でもそうしてしまうと、優しい家族に殺人に加えて自死という更なる苦しみを与えることになる。

 自分は死んでしまうからいいけれど、遺された家族は生涯その苦しみを背負って生きていくことになるだろう。それもまた許されない行為である。ならばいっそのこと・・・・、と彼は考えた。家族を苦しめないために、最初に家族全員を殺してしまおう、そしてそれから憎いいじめ相手を殺すことにしよう、そうすれば、家族は「私が人殺しであること」も「その私が自殺したこと」もを知らずに生涯を終えることになる。

 家族が祖父母だけだったのか、それとも両親や兄弟などもいたのか、そこまでは知らない。それでも14歳の少年は、優しい祖父母の苦しむ顔を見たくなくて、その祖父母を殺害するという行動に走ったのである。

 これを聞いて私は、この犯罪を単に殺人として考えることに疑問を感じたのてある。なんと優しい殺人であることかと、同情以上の共感すら抱いたのである。

 もちろん愚かしい思いであり、決して許されない行動であることに異論はない。彼の選択はどんな理屈をつけたところで間違いであり、許される余地などまったくないことくらい明らかである。

 それでもなお私は、この殺人にどこか「優しさ」を感じてしまったのである。それは、この殺人という残酷さと隣接する彼の優しさとの隔たりの余りにも薄いことであった。彼の犯した行為の残酷さと優しさとは、あたかも紙一重の違いしかないように思えたのである。

 そして、この優しさをどうして少しだけでも方向転換するお節介を、誰かがしてやることはできなかったのだろうかとの苦さを感じてしまったのである。ほんの一押し、両親でも、家族でも、なんなら先生や友達ゆ隣近所でもいいから、触れるだけでいい一押しを、どうしてできなかったのだろうかとの思いに対する苦さである。

 あたかもその苦さは、私が責められてでもいるかのように、私の口中に広がる。恐らく私には何の責任もない。事件が起きとき私は、100%無関係な第三者として遠く札幌で入院していたのだし、そのベッドの上でこの事件をテレビニュースで知ったのだからである。だから私に、何の責められる余地などないことは分っている。

 それでも、苦いのである。社会全体の責任だなどと言うことすら許されないまでのこの苦さは、また別の意味で私たちの、そして私自身の責任であるかのように、どこか思えてならないのである。


                                     2018.10.24        佐々木利夫


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優しい殺人